第18回
「みなさん、日本語がお上手ですね」という言い回しを不思議がる(後編)
2025.02.07更新
そういう観点からみると、これから紹介する H・ガーフィンケルは真に科学的知性だと僕は思います。
かつてH・ガーフィンケルは、学生たちに、ノートの左側にかれらが実際にだれかとかわした会話をそのまま抜き書き、右側にその抜き書きと対応させながら、そのとき何について語っていると当人たち自身が了解していたかを書くように、という課題を出したことがありました。ガーフィンケルの報告するところによれば、左側はすぐ書き込まれたけれども、右側はなかなか埋まらなかった。学生たちは、どれだけのことを書けばよいのかわからず、すっかり当惑してしまったのです。ガーフィンケルがもっと明瞭に、もっと精確に、と要求すれば、ますます学生の当惑は大きくなるばかりです。「最後に、あなたたちが文字どおりに『右側に』書いたことを文字どおりに読むだけで、あなたたちが実際に何について話していたのかをわかりたいのだから、 そのつもりでやってほしい」といったとき、かれらはそんなことは不可能だといって、やめてしまったのです。
もちろん、かれらがこういうのは、それをやり遂げる時間がない、 紙が足りない、といった技術的理由からではありません。 問題は、むしろ原理的なものです。「もし学生が書いたことについて、それがまだ十分精確でも明瞭でもないことをその学生に納得させることができるなら、またもしその学生がかかる曖昧さを修復する意欲をまだ失っていないなら、その学生は、ふたたびその修復作業に着手しながら、今度は、書くこと自体がもとの会話を膨らましてしまい、問題となる部分が枝分かれしてふえてしまうことを、ぼやくことになろう」(1)。つまり、曖昧さを修復するためには、ことばを補っていかなければならないわけだが、まさしくこのことが、さらに修復すべき部分をふやしてしまう、というわけです。
このことは何を含意しているのでしょうか。 曖昧さを修復しようとしても、所詮修復しきれるものでない以上、われわれは、なにかを理解するときも、じつは厳密な理解に達していず、一定程度の曖昧さを残しつつやっているのだ、ということもできるかもしれない。つまり、人間の言葉のやりとりは、すべて原理的な曖昧さのうちにからめとられている、と。しかしながら、このような言い方は具合が悪いと思います。というのも、われわれは、日々生活しているなかで、話者の意図を汲みづらい「曖昧な言い方」にしばしば出会い、しかもこれは、まさにその曖昧さのゆえに、他の言い方と区別されているからです。曖昧であることと曖昧でないことが区別されているという事実を予測できないような議論は、我々の普段の言葉を使う経験からいうと、維持しえません。われわれが日々出合う言い方の多くは、なんら曖昧さがない。 それらは、それらなりに完全である。また、僕がミシマ社自由が丘オフィスの皆さんに向かって発した「皆さん、日本語がお上手ですね」という言い回しもなんら曖昧さを残さずに「冗談」として受け止められていたはずです。
であるならば、こう考えるしかありません。われわれが、 語られていることを理解するということは、学生が右側に書き表わしていったような解釈を、いちいち頭の中でおこなうことではないということです。そもそもわれわれは、実際に語られていることに、頭のなかで一定の解釈をあたえることで、それを理解しているわけではありません。
何が語られているのかがわかること、このことは、 実は頭の外で、実際のふるまいのやりとりを通して達成されます。
たとえば、「やあ、元気?」と声をかけられたとき、「やあ」と答えるなら、このとき僕は相手の発話を「挨拶」と受け取っているだけでなく、そう受け取ったことを相手に対して、まさにそう答えることをとおして示しているわけです。つまり相手は、僕のその答えをとおして、僕が相手の発話をどう受け取ったかをチェックするチャンスがあたえられている。しかも相手にとっても、 もし必要ならばわたしの発話を訂正することのできる場所(slot)が、僕の発話の直後に用意されている。だから、相手がこの機会を利用して、僕の発話の訂正をこころみないかぎり、僕の答え方はさしあたり適切でありえ、その限りで、僕は相手の最初にいったことがわかっていたことになります。僕がが相手のいったことを理解できているという事実は、このような具体的なやりとりのなかで、まさしくこのようなやりとりとして達成されるのです。
もちろん、上の場合のようにうまくことが運ぶとは限りません。つぎのようなことも起こりえます。
花子:タロウ君 元気?
太郎:ハナコちゃん、何言ってるんだよ。さっき会ったばっかじゃん。
花子:だってショウコちゃんが聞くんだもん 「タロウ君の健康状態どお?」って。
タロウの発話は、われわれにハナコのいったことに対して異議をとなえているように聞こえるはずです。つまり、機嫌をたずねる挨拶は、通常一日のうちはじめて顔をあわせたときにしかもちいないという(規範的)ルールに言及しつつ、ハナコがこれに違反していることを指摘しているように、聞こえる。そうであるならば、タロウは、まさにそうすることを通して、ハナコの最初の発話を挨拶として受け取ったことを、ハナコに対して示していることになります。そしてハナコは、このようにして得たチェックの機会を利用して、タロウの受け取り方を訂正しています。つまり、ハナコの「元気?」という発話は、「挨拶」ではなく、タロウの健康状態についての純然たる「質問」だったのです。
タロウは、たしかにハナコの「元気?」という発話を誤解しました。しかも、この誤解は、タロウでなくても、だれでもしうる誤解です。しかしだからといって、「元気?」という言い方が、元来曖昧なものだ、ということにはなりません。この言い方が事実として曖昧であるのは、 ハナコの発話をタロウが誤解として受け取り、実際に修復作業をおこなったからにほかなりません。
「理解」が具体的なやりとりのなかで達成されるのと同様、「曖昧さ」も、語られたとおりのこと(発話された語の列)の特徴であるというよりも、むしろ実際のやりとりの、一つのあり方なのです(なるほど、上のやりとりはフィクションであり、そのかぎりで、ハナコの発話の曖昧さは、この会話を創作した私という作者に帰属すると思います。しかしそれでも、 ハナコの発話が曖昧であるという事実は、ハナコとタロウの具体的なやりとりのなかに示されるからこそ、読者にとっても事実となりうるのです)。
何が語られているのかわからないことも、語られたことが曖昧だということも、あくまでも、やりとりのありかたの特徴であって、個々の発話の特徴ではありません。たとえば、会合の出席を求められて「なるべく出席するようにします」などと返事するなら、それは、しばしば曖昧な返事だと言われる。このような言い方は望ましくないと一般的な形でいわれることすらあります。
しかしそれにもかかわらず、このような言い方がそれ自体で曖昧なわけではありません。それはそれなりに、別の用事のため出席できない可能性があるけれども、そのようなことがないかぎり出席するようにするということを、精確に表現しているとも言えますよね。つまり、上の言い方も、それが曖昧であるのは、具体的なやり取りの中で、そのつど何が目的になっているかに応じてほかなりません。それは、(ヴィトゲンシュタインの例をもちいれば)「一メートル」 や「〇・〇〇一ミリ」がその時々の目的いかんによって、 精確でも不精確でもありうるのと同じである。「わたしが太陽までの距離を一メートル単位で厳密に述べなかったり、机をつくってもらうのに、机の幅を〇・〇〇一ミリ単位でいわなかったなら、それは不精確なのか」(『哲学探究』岩波書店、第六節)。
このことがさしあたり含意するのは、曖昧さというものが、実際のやりとりをおこなっていくうえでの、阻害要因であるかのような言い方は、かならずしも我々が生きている複雑な現実を正しく反映していないということです。むしろ曖昧は、一義性とおなじ資格で、やりとりを組織するやり方なのです。
たしかに、曖昧さを阻害要因とみなすのは、われわれの「自然な直観」です。われわれがこのような直観を持つという事実は、もちろん尊重されるべきでしょう。しかし、 自然な直観はあくまでも一つの事実として尊重されるべきであって、それ自体が我々の現実を説明できるような理論であるわけではありません。実際、曖昧であることはしばしば非難されます。しかし、 曖昧な言い方だから非難されるという説明は、当事者の説明であって、ここで提出すべき説明ではありません。ここでの見方からすれば、曖昧さにたいする否定的な評価をわれわれがもっているという事実は、一義性に対する肯定的評価の場合と同様に、具体的なやりとりを一定のしかたで方向づけるための一つの資源にほかならない。 たとえば、このような否定的評価が参照事項として使用できるからこそ、「あなたの言い方は曖昧だ」と語ることは、 相手にたいする非難でありえ、したがって、相手の側で反論、言い訳、謝罪、訂正などが適切となるようなしかたで、やりとりは方向づけられることになります。
さらに、曖昧さ・一義性がやりとりの特徴であるならば、個々の発話はいずれも具体的なやりとりのなかで、 一義的な完全な発話にも曖昧な発話にもなりうる。個々の発話の意味は根本的に不確定的である(いうまでもなく、この不確定的ということは曖昧であることとはまったく違います)。そして、この発話の意味が不確定的であること自体が、しばしば利用される。ここで特に興味深いのは、どのような発話も、やりとりのなかで「曖昧」になりうるという可能性が、利用されることです。
最後にせっかくなので僕とSさんとの「みなさん、日本語がお上手ですね」という言い回しをめぐるやりとりをスピードを落としてスローモーションでもう一回ゆっくりみてみましょう。
01:(受話器に向かって)皆さん、日本語が本当にお上手ですね
02:(1.5秒が経過)
03:ハハハ
04:それでは、ちょっとまじめな話をしたいんですが
僕が「 皆さん、日本語が本当にお上手ですね」と言ったあと、1.5秒の間が空いているのがわかりますよね。もしあなたがこの場面を目撃していると想像してほしいです。そして答えてほしいです。02行目で黙っているのは誰でしょうか?あなたは迷うことなく答えられるはずです。「そんな当たり前なことを。それはSさんに決まってるでしょ」と。
そう答えたあなたは実は一つの不思議な能力(おそらく普段は「能力」だとぜんぜん思わないはずです)を使っていると思います。「黙っている」というのは、文字どおりには、「何もはなしていないということ」ですよね。そして、02行目で間が空いているのだから、実は僕も何も話していない。だが、あなたは、02行目で「僕が黙っている」とは感じないはずですよね。それだけではありません。Sさんは01行目で何も話していない。ですが、01行目は「Sさんが黙っている」とは見えないはずです。あなたは、上のやりとりを次のように見る能力を持っていると思います。
01 僕:(受話器に向かって)皆さん、日本語が本当にお上手ですね
02 Sさん:(沈黙)
あなたはさらに、02行目でと03行目で、そして04行目で起こっていることをつぎのようにも見たのではないでしょうか。
01 僕: (受話器に向かって)皆さん、日本語が本当にお上手ですね
02 Sさん:(一瞬意味が分からず考えている)
03 Sさん:(僕の言葉を冗談だと察知して笑う)ハハハ
04 僕:(Sさんが僕が発した言葉が冗談として相手に読み込まれたことを確認して)それでは、ちょっとまじめな話をしたいんですが
その時、あなたの眼には「冗談」をする「意図」とそれを「冗談」として受け止めた「心」というものが見えているはずです。不思議なことに「これから冗談をいいますね」とか、「その冗談よくわかりました」とかいう、明示的な発言がなかったにもかかわらずです。
こういう日常にありふれた些事をよく観察してみると、私たちが言葉を使うときに基本的知識を使っているのがわかります。それは「質問をしたら応答が返ってくる」「挨拶をしたら挨拶が返ってくる」というような知識です。この知識には、そういうことが実際によくあるということだけでなく、「そうなるべきである」という規範的期待が含まれています。この規範的期待を生み出す装置のことを「隣接対(adjacency)」と呼びます。
より正確に言えば、隣接対とは、「質問-応答」「挨拶-挨拶」「依頼-応じる/断る」のように①第一成分(first pair part)と第二成分(second pair part)という二つの部分からなり、②それらは隣り合った位置で生じ、③それぞれ別々の話し手が発し、④第一成分が第二成分より先に生じ、⑤第一成分は対応する種類の第二成分を要求する、という行為である(2)。
隣接対を参照すると、私たちは「自分が第一対成分を発したなら、相手はすぐ次に、対応する第二対成分を発するはずだ」という期待を正当に持つことができます。だからそれは、相手に何かをやらせたいときどうすればいいかを教えてくれます。相手にやらせたいことが第二対成分となるような第一対成分を発すればいいです。実際、調べてみれば、圧倒的に多くの場合に、相手はこの期待どおりに行為することがわかるでしょう。家族や友人など気心の知れた相手だけでなく、見ず知らずの相手でもすぐそうするのがわかるだろうと思います。
でも、隣接対が可能にするのはそれだけではありません。対応する第二対成分が発せられなかったとき、それが「ない」ことを「見る」ことも可能にするのです。「Sさんの答えがない」ことが見えたとき、あなたは隣接対を参照する能力を使ったいたのです。それと同じく「みなさん、日本語がお上手ですね」と言ったときに、Sさんが笑ってしまったのもこの隣接対(冗談をする-笑う)を使っていたからだと思います。それは言葉をもちいてやりとりを支えるもっとも基本的な能力の一つだと思います。
みなさんは、超高速度カメラのスローモーション映像をみたことがあるでしょうか。たとえば、雨粒が水面に落ちるところを、肉眼で見ると、水面に落ちる雨粒は、一瞬のうちに水面に消えていきます。でも、超高速度カメラのスローモーション映像で見ると、雨粒はいったん水面に沈んだあと、1/2くらいの大きさになって跳ね上がる。その雨粒がふたたび水面に沈むと、今度はもとの雨粒の1/4くらいの大きさになって跳ね上がる。これを何度か繰り返して、ようやく一つの雨粒は水面へと消えてなくなることがわかります。
物事を観察するスピードを落としてみることで、普段は気づくことのない精緻な現象が目の前に存在していることに気づくことがあると思います。それは既成の学知が「うまく説明できない」ものとして科学という名のテーブルから叩き落としたり、見向きもしなかったりした現象かもしれません。そうした日々のやりとりを、普段とは異なるスピードと視点で観察してみたら、そこには普段私たちが気づくこともない、見る者をどんどん引き込んでよく微細な文化の装置が展開していることがわかると思います。
いまいきなり思いづいたことですが、「隣接対」という装置に基づいて会話するという、水面下にひそんでいる「普通」を前景化するためには、今回試みたように言葉について「普通はしないこと」をあえてすることが必要だと思います。
どうしてそんなことを自分と相手がしてしまったのか、後から考えてもうまく説明ができない行動。そういうのを、ふつうは面倒くさいから「蓋をして」記憶のアーカイブの隅の方にしまい込んでしまいますけれど、実はこういうエピソードこそ日常の「深さ」や「複雑さ」についての情報の宝庫でもあるのです。
自分たちが日ごろ意識せずにやっていることをこうやって「見通し」のきいたかたちで跡づけること、これはけっして単純なことでも、簡単なことでも、無意味なことでもないと思います。
僕が今回試みた、ありふれた日常の些事を不思議がるということは、それまで自分が知らなかった物差しで自分のしたことの意味や価値を考え直す、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明しなおすことにつながると思います。
(1)Garfinkel, H. (1991). Studies in Ethnomethodology. Englewood Cloffs.
(2)Schegloff, E. & Sacks, H. (1973) Opening up closings. Semiotica, 8. 289-327.