第7回
業力-It's automatic その6
2020.12.23更新
「たった一つだけの頼み」
「文七元結」の重要なポイントは、長兵衛は文七に言った「たった一つだけの頼み」にあると思います。
長兵衛は50両を差し出し、自分が大金を持っている事情を説明したあと、「だったら頼みが一つある」「金比羅さまでもお不動様でもいい。拝んでくれ」と言います。50両を大晦日までに返さなければ、娘は店に出されてしまう。悪い男から病気をうつされるかもしれない。人生がボロボロになってしまう。もう自分にはどうすることもできない。
長兵衛は、吾妻橋で絶対的な無力に立たされます。
彼は直前に、吉原の佐野槌で、自分の「どうしようもなさ」に直面します。女将に諭され、娘に謝ることで、自己の不甲斐なさを思い知らされます。
博打をやめられない自分。仕事をしない自分。腹いせに家族に暴力を振るう自分。罪と悪にまみれ、家族に迷惑をかけ続けている自分に対する嫌悪感が湧き上がり、慚愧の念に堪えなくなります。
長兵衛は、自己の「弱さ」と向き合い、それを認めます。女将に大金を借り、娘に謝る無様な自分をさらけ出します。
その直後です。彼は吾妻橋で身投げしようとしている青年に出会い、大切な50両を出してしまいます。
ここで重要なのは、自己のどうしようもなさの認識が、他者への親身につながっていることです。そして50両を手放してしまう。
一体、長兵衛の中で、何が起きているのでしょうか。
当然このとき、長兵衛は未来の結末を知りません。この50両を差し出したことが、後に自分に幸福をもたらすとは考えていません。のちのち自己への利益・恩恵となって帰ってくるとは、思ってもみなかったでしょう。未来は暗闇の中です。
50両を出すことと、未来の利益の間には、この時点で因果が成立していません。因果は結果としてもたらされたものであって、因果を前提とした意図的行為ではありません。長兵衛の行為は、未来への投資として行われたものではありません。
長兵衛は、大切な娘を救う手立てを喪失しました。彼が直面したのは、自己の徹底的な無力です。なにもできない無様な自分。裸になった自分。そんな彼は、「拝んでくれ」と懇願するところまで追い込まれています。
――拝むこと。祈ること。
長兵衛に宿ったものとは何なのか。
涙
ここで、私が経験したことを書きたいと思います。
長男が生後2か月足らずの年末に、高熱を出したことがありました。咳はどんどんひどくなり、ぐったりしています。大晦日の夜7時。たまらず夜間救急診療所に連れて行きました。
そこは、まるで野戦病院。廊下にも人が溢れ、多くの人がベンチにうずくまっていました。
子供は相変わらず全身で咳き込んでいます。しかし、なかなか順番が回ってきません。張り裂けそうな想いで待っていると、ようやく名前が呼ばれました。
受診すると、流行っていたRSウィルスの可能性を示唆されました。しかし、大晦日の夜。今からの入院は難しいと言います。検査をして、RSウィルスだと分かったところで、夜救診では処置の仕様がないと言います。とりあえず薬を飲ませて、家で安静にするしかないと言われ、不安なまま家路につきました。
子供の咳は、連日続きました。お正月ムードは吹き飛び、夫婦交代で我が子を抱き続けるしかありませんでした。
とにかく薬を飲ませる以外、何もしてあげられない。抱きしめることしかできない。自らの根源的な無力を突きつけられ、オロオロするしかありませんでした。
そして5日後。
ようやく咳がおさまりました。熱は下がり、笑顔がこぼれました。
久しぶりの安堵に包まれ、窓の外を眺めました。寒空の中から、日がさしていました。
私は、子供を寝かせつけようと思い、日差しにつられて、つい歌を口ずさみました。なぜか「元祖天才バカボン」(アニメ版)のテーマ曲が口をついて出てきたのです。
「青空の梅干しに、パパが祈る時・・・」
この冒頭の歌詞を口にした途端、私の眼から大粒の涙が溢れだしました。何とか止めようとしても、止まらない。子供はぽかんとした表情で、父の泣き顔を見ていました。
どうしたのか。なぜ涙があふれるのか。
暫くの間、自分で自分の心が捉えきれないでいたのですが、「あっ、そうか」と不意に気が付きました。「この5日間、自分は祈り続けていたんだ」。
祈っているという自覚は、全くありませんでした。祈る余裕すらなかったというのが実情でした。ただただ胸が締め付けられ、動揺していただけでした。
しかし、私は祈っていたのです。無力な自己を子供の前に晒すしかなかったとき、私は無言で、無自覚に祈っていたのです。正確に言えば、祈りが私にやって来て、宿っていたということになるでしょう。
裸になってわかったこと
長兵衛が「裸になって分かったこと」は何か? それは自分の力を超えた「他力」の存在です。そこに現れたのが「仏の業力」であり「浄土の慈悲」です。
「聖道の慈悲」(=自力の慈悲)は、どうしても嘘くさい噺になります。そして、説教くさい。談志は、そんな噺を落語の範疇に入れることを拒否しました。
しかし、人情噺の代表作といわれる「文七元結」を、何度も演じ続けました。それは「文七元結」が、単なる「いい話」に留まらない「何か」を表現していると確信していたからでしょう。談志は、それを追求し続けました。そして、吾妻橋のシーンを見事に演じました。私は、談志の熱演を見る度に、鳥肌が立ちます。人間の力を超えた何かが現れているように思えるからです。
自分はどうしようもない人間である。そう認識した人間にこそ、合理性を度外視した「一方的な贈与」や「利他心」が宿る。この逆説こそが、談志の追究した「業の肯定」ではないでしょうか。つまり、談志がつかもうとしたのは、人間の力を超えた「浄土の慈悲」であり、「仏の業」だったのではないでしょうか。
人間の本源的悪を凝視しつづけた親鸞は、「消息集」の中で、次のように言っています。
【原文】としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにても候わめとこそおぼえ候え
【現代語訳】数年来、弥陀の浄土に生まれようと念仏の生活をしてきた人は、自分がもともと仏とも法とも考えていなかった昔のことを思い返して、友達や同じ念仏の法につらなる朋友ともまごころをもって互いに親身になって接するようになること、これこそが本当に仏さまの願いに生きようとする者の生き方ではないでしょうか。
人間は仏に照らされ、自己の愚かさに気づく。この「悪」の認識を持つことで、他者への「懇ろの心」(ねんごろのこころ)を抱くようになる。親身になって相手に接するようになる。仏の業に導かれた逆説の中に、利他的行為が発生する。親鸞は、そんな人間の摂理を見つめた人でした。
自己がどうしようもない人間だという認識を持った人間こそが、他者に親身になることができる。世界を愛することができる。落語を抱きしめることができる。
いや違います。私たちはその瞬間に、世界に抱きしめられるのです。そして、落語に抱きしめられている。
ここに現れるのが「いのち」への根源的な共感であり、そこにやってくるのが仏の慈悲です。他力に押されて行う行為こそが「利他」であり、そこにのちの幸福との因果関係は存在しません。それは因果の外部にある行為であり、理屈の付かない行為です。
談志は、落語の極点を「イリュージョン」という言葉で説明しようとします。
イシュージョンというのは、毎度言うとおり、宇宙に群れあっている無数のモノやコト、生き物から、さっと一部だけを持ってきて、"どうでい"と示すものだ、という言い方もできる。[立川2018a:51]
例えば2007年のよみうりホールの「芝浜」。このとき、登場人物が「演者から離れて勝手に動き出した」と言います。It's automatic! これこそ、談志が落語に抱きしめられた瞬間だったのでしょう。
「利他」というのは、何か単独で「利他」という観念が成立しているわけではありません。大きな世界観のなかで、無意識のうちに、不可抗力的に機能しているものです。重要なのは、「利他」が「利他」と認識されない次元の「利他」です。
長兵衛は、霧の吾妻橋で、そんなところに立っていたのだと思います。
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