利他的であること

第8回

与格-ふいに その1

2021.01.26更新

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『思いがけず利他』

ヒンディー語の与格構文

 私は1994年に、大阪外国語大学に入学しました。この大学、今は大阪大学と合併し、大阪大学外国語学部になっています。
 私が大阪外大で学んだのは、ヒンディー語という言語でした。ヒンディー語はインド中部から北部で話されている言葉で、今では約5億人の話者がいます。近年はテレビや映画の影響で、ヒンディー語を母語としないインド人でも、この言葉を理解できる人が増えています。
 ヒンディー語は、日本語と語順が概ね同じであるため、日本人にとっては、比較的習得しやすい言語ではないかと思います。とはいえ、外国語です。日本語では一般的ではない文法や構文があり、使いこなすことができるまでには幾多のハードルがあります。
 中でも、初学者が必ず躓く文法があります。「与格構文」というものです。
 例えば、「私はうれしい」と言う場合、ヒンディー語では「私にうれしさが留まっている」という言い方をします。「風邪をひいた」も同様で、「私に風邪が留まっている」という言い方をします。この「~に」で始める構文を「与格構文」と言います。
 では、すべて「~に」で始めればよいかというと、そうではありません。多くの場合は、日本語と同じように、主語を「~は」「~が」で表現します。「私は会社員です」「私がやります」など、「主格」を使う場合が大半です。
 ややこしいですよね。
 どんな時に主格(「~は」)を使うべきで、どんな時に与格(「~に」)を使うべきなのかの区別が、難しいのです。今でも間違えてしまうことが多々ありますが、勉強し始めた時には、かなり混乱しました。
 では、ヒンディー語話者の間で、「主格」と「与格」の使い分けは、どのようにしてなされているのでしょうか。
 文法書では、自分の意思や力が及ばない現象については、「与格」を使って表現すると書いてあります。この説明を読んで、「なるほど」と思いました。要は自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合、ヒンディー語では「与格」を使うのです。
 確かに、風邪をひこうと思ってひく人はいないでしょう。「うれしい」「悲しい」という感情も、私の意思によってコントロールしているわけではありません。自ずと湧き上がってくるものです。うれしくて思わず笑みがこぼれたり、憤りのあまり顔が真っ赤になったりするのは、統御できない行為ですよね。自分の意思を超えています。
 学生時代、私が「なるほど」と思ったのが「愛」の表現でした。ヒンディー語では、「私はあなたを愛している」というように主格を使う場合もありますが、「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」というように、与格を使う表現もあります。日本では1965年に「愛して愛して愛しちゃったのよ」という曲がヒットしましたが、この「愛しちゃったのよ」という表現は、ニュアンスが近いかもしれません。あなたのことを愛そうと思って愛したのではない。あなたへの愛がやってきたんだ。不可抗力なんだ。どうしようもないんだ。そんな愛の構造が言語に現れていて、何かカッコいい表現をするな、と思いました。
 これは前章で論じたオートマティックの構造そのものです。自力を超えた力学です。

言葉はどこからやってくるのか?

 大学院でインド政治を研究し始めた私は、インドに行って現地調査をするようになりました。20代半ばから後半にかけてのことです。当然、日常的にヒンディー語を使うようになりました。
 インドはイギリスに植民地支配されていたため、今でも英語がよく通じます。都市で一定の教育水準以上の人たちと付き合っていると、英語だけで事足りることがあります。しかし、私が調査の対象にしたのはスラムの住民や教育を十分に受けていない庶民層で、日常会話はすべてヒンディー語でした。日本人がヒンディー語を話すと、北インドの人たちは喜んでくれました。そんな時、ヒンディー語を学んでよかったなと心から思いました。
 しかし、時折、警戒されることもありました。特にエリート層への聞き取り調査を行う場合、いきなりヒンディー語で話しかけると、「なんだか怪しい奴だな」と驚かれ、不審がられてしまうことがあるのです。確かに、そうですよね。私たちだって、突然、外国人に日本語で声を掛けられ、話を聞かせてほしいといわれると、「この人、大丈夫かな?」「何かトラブルに巻き込まれるんじゃないかな」と構えますよね。実際、フィールドワークを始めたばかりの頃は、何度も失敗しました。
 しばらくして、私は調査のテクニックを身につけました。相手が英語を使いこなすことのできるエリート層だとわかっていると、最初からヒンディー語では話しかけず、まずは英語で話し始めるのです。そして、ある程度、コミュニケーションがとれてからヒンディー語に切り替えます。すると相手が急にリラックスし、私に関心をもってくれるのです。
「なぜ君はヒンディー語ができるのか?」と逆に質問をしてくれます。こうなると相手との距離は一気に近づき、調査が円滑に進みます。いくらインドの人たちが、英語ができるといっても、やはり母語で話すほうがストレスは少なく、気持ちもほぐれます。そして、何より目の前のヒンディー語を話す日本人のことが気になります。
「どこでヒンディー語を勉強したのか?」「インドで何をしているのか?」「調査って何の調査?」「インドのどこに住んでいるのか?」―――。
 私に興味を持ってもらえると、一歩踏み込んだ会話が始まります。親密な関係ができていき、それに伴って相手も率直にいろいろなことを話してくれます。
 さて、英語からヒンディー語に言葉を切り替える時です。急にヒンディー語を話し出した私に対して、相手は驚いた表情を見せ、尋ねます。「ヒンディー語ができるのか?」
 この時、インド人の多くは与格構文を使いました。直訳すると「あなたにヒンディー語がやって来て、留まっているのか?」となります。
 こんなところでなぜ与格構文を使うのかだろうと、はじめは不思議に思いました。特定の言語を話すことが、なぜ「与格」なのか?
 しかし、よく考えると非常に重要な思想がここに含まれているのではないかと思えてきました。
 ―――言葉が私にやってきて留まっている。
 だとすると、言葉はどこからやってきたのでしょうか?
 それはおそらく過去であり、その先にある彼方でしょう。インド人の感覚で言えば「神」ということになります。
 私が言葉を所有しているのではない。言葉は私の能力ではない。私は言葉の器である。言葉は私に宿り、また次の世代に宿る。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。そんなふうに捉えられているのです。
 このことを理解したとき、「与格」という文法構造がもつ深遠な思想に強く惹きつけられました。そして、ここに「主格」では捉えきれない利他の構造について、重要な示唆を与えてくれる存在論・認識論があるのではないかと思いました。

中島岳志

中島岳志
(なかじま・たけし)

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。北海道大学大学院准教授を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』『朝日平吾の憂鬱』『保守のヒント』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『岩波茂雄』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『保守と大東亜戦争』、共著に『現代の超克』(若松英輔、ミシマ社)などがある。

編集部からのお知らせ

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9784909394453.jpg土井善晴・中島岳志(著)『料理と利他』

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中島岳志先生による「土井善晴論」(1)

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