第9回
与格-ふいに その2
2021.02.08更新
ラマヌジャンの数式
インド人の有名な数学者にラマヌジャンという人がいます。1887年に生まれ、1920年に亡くなった人ですので、すでに没後100年が経過しています。
彼は「天才的なひらめき」をもった数学者と言われてきました。彼は毎日のように新しい数学結果をノートに記し、周囲を驚かせました。1916年に考え出した新しいゼータ関数は、1995年のフェルマー予測の解決という大定理に大きく貢献しました。現在では20世紀を代表する大数学者と讃えられていますが、当時、彼の業績はなかなか評価されず、失意の中、32歳の短い生涯を終えました。
そんなラマヌジャンの生涯を描いたのが、映画「奇蹟がくれた数式」(原題はThe Man Who Knew Infinity)です。2016年に公開され、日本でも話題になりました。
この映画は、ラマヌジャンの苦悩を的確に描いています。彼は驚くべき数学的発見を、次々に提示しました。しかし、そこには「証明」というプロセスがありませんでした。中学校の数学で「証明問題」を習いましたよね。現代数学で重視されるのは、数式を導き出す論理的プロセスで、「証明」が認められてこそ、数学的価値を持つに至ります。ラマヌジャンは、この「証明」をとばして、一気に結論を提示しました。この方法が、数学界では認められませんでした。
彼の才能に目を付けた数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは、ラマヌジャンをケンブリッジ大学に招きます。しかし、二人の関係はうまくいきません。ハーディは「証明」を求めます。「証明」のない数式は、現代数学の世界では認められないと迫ります。
しかし、ラマヌジャンはこれに納得しません。なぜならば、ラマヌジャンの方法は、現代数学の「証明」とは全く異なるものだったからです。
ラマヌジャンはどうやって数式を導き出していたのか?
彼は言います。
ーー「ナマギーリ女神が舌に数式を書いてくれる」
ナマギーリ女神とは、インドのタミルナード州で信仰される女神で、ヒンドゥー教のラクシュミーという女神のローカル版です。ラクシュミーは仏教に取り込まれ、吉祥天として日本にも伝わっています。浄瑠璃寺の「吉祥天立像」は、美しい仏像としてよく知られています。
ラマヌジャンは貧しい家庭に育ちましたが、カーストはバラモンで、母親から熱心な宗教的教育を受けました。そのため彼の世界観は、ヒンドゥー教の教えと密着しています。彼が数学にのめりこんだのも、神への道につながっていると確信していたからでした。
私たち人間は、有限なる存在です。能力にも命にも限界があります。一方で超越者たる神は無限の存在であり、真理そのものです。有限なる人間は、いかにして無限なる存在に接近できるのか。その道筋は様々で、ある人は修業をし、ある人は儀礼を行います。経典を読むことに没入する人もいるでしょう。
ラマヌジャンにとっての方法は、数学でした。数式は、神の存在の現れであり、自らの信仰と切っても切れないものでした。彼の中では、数学は神の定理にアクセスする宗教的行為に他ならなかったのです。
ラマヌジャンは次のような体験を語っています。
ある日、眠っていると、突然、赤いスクリーンが現れました。よく見ると、それは流れる血でした。彼が目を凝らしていると、そこに手が現れ、何かを書き始めました。それは楕円積分(elliptic integrals)でした。彼は、画面に書かれたものを心にとどめ、目覚めてすぐに書き起こすことを誓います。そして、起床後、ペンを持って数式を書き出しました。
ラマヌジャンによる数式の「発見」は、このようなプロセスによって起きたのです。近代数学の「証明」とは、かけ離れていますよね。しかし、彼にとって、この方法こそが数学でした。
ケンブリッジ大学の数学者とラマヌジャンの対立は、主格と与格の対立だと私は考えています。近代数学の「証明」は、主格的です。「私が論理的に証明する」ことが、数式に意味を与えます。それに対して、ラマヌジャンの数式は、「私に神からやって来るもの」です。私という存在は、神から届くものを受け止める「器」にすぎません。神は夢の中に現れ、時に舌の上に数式を置いていきます。ラマヌジャンは、それを書き留める媒介者です。
彼は言います。
ーー「神についての思索を表現しない方程式は、僕にとっては無価値だ」
「情緒」と「流れ」
このような与格的数学は、荒唐無稽な存在なのでしょうか。私は、ラマヌジャンの方法にも、重要な数学の本質が含まれていると思います。
近代日本を代表する数学者・岡潔は、「数学は情緒である」と言います。情緒は、与格的存在です。私たちの心に唐突に現れ、全身を駆け巡ります。意思の外部によって沸き起こる感情であり、オートマティカルなものです。「異国情緒」や「下町情緒」といった言葉があるように、時に風景として現れたりもします。目の前を流れる景色が、私の心と呼応することで情緒が生まれる。情緒は器である私にやって来るものです。
数学者の加藤文元は、「どういうわけかわからないが、とにかく数学と音楽は似ている」と言います[加藤2013:10]。彼は音楽を聴きながら、突然、数式が頭に現れることがあると述べ、それが「論理」の構造と関わっていると論じます。
数学と音楽が似ていると感じられる理由の一つとして、「論理」というものがいくつも決まって「流れ」を構成する、そしてその流れとは優れて音楽的な流れとよく似たものであるということが挙げられる。その意味では、本来は数学だけでなく、およそ論理的な思考に依拠した学問はどれでも多かれ少なかれ音楽に似ているはずだ。ただ、数学においては論理性が特に強調されることから、よく音楽と比較されるということなのかもしれない。
「論理」は必ず「流れ」を伴って現れる。いや、それだけではなく、そもそも論理と流れとは同一のものだ。[加藤2013:11]
ヒンドゥー教に、サラスワティーという女神が存在します。この神は学問や芸術、音楽をつかさどっており、仏教では「弁財天」として信仰されてきました。
サラスワティーは、『リグ・ヴェーダ』という聖典のなかで「聖なるサラスヴァティー川の化身」として描かれています。北インドにアラハバードという街があり、ここでガンジス川とヤムナ川という大河が合流するのですが、インドの人たちは目に見えないもう一つのサラスワティー川もここで一つになると捉えています。この合流地点は「サンガム」と言われ、信仰の場所になっており、多くの巡礼者が訪れます。
サラスワティーという神様は、「流れ」なのです。インドの人たちにとって、論理や芸術、音楽は、すべて「流れるもの」であり、同じ女神への信仰に帰結します。
次の絵を見てください。これはサラスワティーを描いたものですが、女神は水辺に座り、楽器を弾いています。この楽器はヴィーナという弦楽器で、他にも手には聖典『ウェーダ』を持っています。
ーー流れは音楽であり、論理である。
数式は私が生み出すのではなく、私にやって来るもの。流れに身をゆだね、宿ったものを表現すること。それがラマヌジャンの数学でした。
この与格的方法を、近代は主格に置き換えていきました。すべて「私は」「私が」と表現することで、与格という人間のあり方が見えなくなってきたのです。
そして、主格の偏重は、与格的存在を「前近代的なもの」「怪しいもの」「正常ではないもの」として排他的にとらえるようになりました。この姿勢が、利他の構造が見えなくなってきたことと深くかかわっているのではないかと思います。
主格の近代は、いったい何を排除してきたのでしょうか。
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