第11回
与格-ふいに その4
2021.03.11更新
器としての私-志村ふくみの染色
――やって来るものを受けとめること。そこに身をゆだねること。
このような与格的主体のあり方は、多くの「名人」「職人」「達人」と言われる人たちによって、さりげなく語られてきました。彼ら・彼女らの多くは、技の極意を問われると、自己の能力を語るのではなく、「やってくる力」を語ります。
染色家で人間国宝の志村ふくみさんは、繰り返し「色をいただく」という言い方をします。彼女は『色を奏でる』の中で、次のように言います。
ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にはならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。
私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。[志村1999:16]
志村さんにとって、色は人間が作るものではありません。やって来るものです。染色家にできることは、「色をできるだけ損なわずにこちら側に宿す」ことです。「私」は、色が宿る「器」のような存在です。
志村さんは、同じ本のなかで、「色」を「私のところにやってくる子供のようなものだ」と言います。確かに自分が仕事をし、それによって糸に色が現れます。しかし、それは「どこか一番根元のところではいただきもの」であり、「さずかりもの」です。「私」は、色と糸の媒介にすぎません。
土井善晴の料理論
このような感覚は、染色の世界にとどまりません。料理家の土井善晴さんも同様のことを語っています。
土井さんは「おいしいもの」を人間がつくるという考え方を否定します。「おいしさ」はやって来るものであり、「ご褒美」である。料理人は、素材と料理の媒介にすぎず、自然に沿いながら、それを整えることしかできない。そう語ります。
土井さんは、「一汁一菜」という食事のあり方を提唱します。これは味噌汁のような「汁物一品」と漬物などの「惣菜一品」、それに「ご飯」という組み合わせでいいという考え方です。味噌汁の中には、季節の野菜などを入れます。そして、出汁をとらない。味付けは味噌のみで、野菜などの具材の味がそこに加わります。
土井さんは、次のように言っています。
まずは、人が手を加える以前の料理を、たくさん体験するべきですね。それが一汁一菜です。ご飯とみそ汁とつけもんが基本です。そこにあるおいしさは、人間業ではないのです。人の力ではおいしくすることのできない世界です。みそなどの発酵食品は微生物がおいしさをつくっています。ですから、みそ汁は濃くても、薄くても、熱くても、冷たくても全部おいしい。人間にはまずくすることさえできません。そういった毎日の要になる食生活が、感性を豊かにしてくれると、私は考えています。[土井2020]
土井さんが目指す料理は「人間業ではない」料理です。人間にできることは限られている。大切なのは、自然の力を皿の上に宿すこと。そこに自ずと「おいしさ」が現れ、料理が完成する。「お料理を置いたら、盛り付けが終わったら、そこに人間が残ったらいけないんです。人間は、消えてなくならないといけない」[土井・中島2020:28]。
土井さんは味噌造りのマイスター・雲田實さんについて、次のように言っています。
『良き酒、良き味噌は人間が作るものではない、俺が作ったなどと思い上がる心は強く戒めなければならない』と口癖のように言う実直な人柄[土井2016a:182]
良い酒も、良い味噌も、人間の作為性によって作られるものではない。その「おいしさ」は宿るものです。だから、料理人が諫めなければならないのは、「こんなおいしいものを作ったのは私だ」という思い上がりです。
民芸の与格性
志村さんと土井さんには、共通点があります。それは「民芸」のあり方に、決定的な影響を受けている点です。
民芸とは「民衆的工芸」の略で、柳宗悦を中心に河井寬次郎、濱田庄司らによって提唱されました。大正時代の終わりごろのことです。
民芸の重要性は、その与格性にあります。多くの芸術家は、美しい作品を作ろうとして、素材に向き合います。しかし、同じ形の日用品を作り続けている人は、美しいものを作ろうなんて、いちいち考えていません。毎日の仕事を丁寧に、そして淡々とこなします。
柳はここに計らいを超えた「用の美」が現れると言います。美しいものを作ろうとすると、作品は人間のさかしらな作為性にまみれ、美が逃げていきます。重要なのは、意思を超えたものが宿ること。美は作るのではなく、やってくるのです。
志村さんは、柳が『法と美』の中で「念仏が念仏す」と述べていることに触れ、次のように言っています。
柳先生はその中で、益子窯の「山水土瓶」の例をとって、ごく平凡な民器であるが、土瓶に山水を描く本人も、何を描き、どうか描くのかも忘れるほど手早く淀みなく何千回、何万回と描き続ける、そういう状態に入った時、描く事が描いているという、つまりおのずから仕事が仕事をしている、人間と仕事がいつのまにか一体になっているということをいわれているのである。[志村1999:172]
人間が仕事と一体化すると、そこから人間の意思が消えていきます。すると、仕事が仕事をし始める。オートマティックに物事が動いていく。「美しいものを作ろう」という邪念を超えた「美」が宿る。この与格的構造こそが、柳の求めた「民芸」の精神であり、志村さんの色に対するアプローチです。
土井さんも同じく、民芸に大きな影響を受けています。土井さんは、若き日、一流の料理人になろうと考え、ヨーロッパに修業に行きます。そして、帰国後も、和食料理人として腕を磨き、ミシュランガイドに載るような料理店を構えることを夢見ます。
しかし、家庭料理の普及に尽力していた父・土井勝から、料理学校を手伝うように言われました。当初は「なんで私が家庭料理をせなあかんの」と落胆し、悩みこんだと言います。しかし、ある出会いによって光が差し込みます。それは、京都にある河井寛次郎記念館との出会いでした。
民芸運動を推進した河井の作品・住まいに囲まれたとき、土井さんは「家庭料理は、民芸や」と思ったと言います。
日常の正しい暮らしに、おのずから美しいものが生まれてくるという民藝の心に触れたとき、「ああ、これって家庭料理と一緒や、家庭料理は民藝なんや」という確信が初めて持てた。そう捉えたら、「これはやりがいがある世界や」と思えるようになりました。[土井:2017]
土井さんは、ここから大きな方向転換を経験します。「おいしいもの」や「美しいもの」を作ろうとしてはいけない。料理が料理するようにならなければならない。自分の計らいや意思が消え、黙々と仕事に没頭する。そうすると素材が自分に寄り添い、おいしいものが現れる。そんな民芸的料理を指向します。
おいしさや美しさを求めても逃げていくから、正直に、やるべきことをしっかり守って、淡々と仕事をする。すると結果的に、美しいものができあがる。[土井2017]
ここにも与格的な主体のあり方が、表現されています。
編集部からのお知らせ
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