第65回
コモンのつくり方、ひらき方(1)光嶋裕介×斎藤幸平
2021.03.27更新
2021年1月に刊行した、建築家・光嶋裕介さんによる著書『つくるをひらく』。後藤正文さん、内田樹さん、いとうせいこうさん、束芋さん、鈴木理策さん、5名の表現者とともに「つくるとはどういうことか?」を考え続けた、著者の思考の軌跡が詰まった一冊です。
本書の刊行記念トークイベントの第1弾では、『縁食論』著者の藤原辰史さんと「あいだ」のつくり方、ひらき方についてお話しいただきました。そして、第2弾となる今回は、対談ゲストとして『人新世の「資本論」』著者・斎藤幸平さんがご登場!
人新世、資本主義、気候変動といった大きな問題に対峙し、「コモン」という切り口から、新たなコミュニズムのかたちを提示する斎藤さんと、「コモン」のつくり方、ひらき方について対談した模様を、今日、明日で掲載いたします!
(構成:田渕洋二郎)
(左:『つくるをひらく』光嶋裕介、右:『人新世の「資本論」』斎藤幸平)
メモに何が書かれていないか
斎藤 今日はよろしくお願いします。まずこの『つくるをひらく』を読ませていただいて、最初に目についたのが光嶋さんの手描きのメモなんですね。そして、なんと今回の対談のためにも、『人新世の「資本論」』について、まとめのメモををつくってくださった。
僕が最初に書いた『大洪水の前に』という本は、これまで刊行されてこなかったマルクスが書いたノートであったりメモ書きを「資料」として読むことで、実はマルクスのなかに環境思想が色濃く残っていて、それが現代に生きてくるのではということを書いたんです。
だから、こういったノートやメモ書きを読むことが僕の研究者としての出発点だったので、こうやって作っていただけるのは本当に嬉しいですね。
そしてこれを見ることで、光嶋さんが何に着目したのかをついつい考えてしまう。まずは「コモン」という言葉が重要だと思って真ん中に来てるな、とか「3.5%のアクション」が熱い感じになってるな、とか。マルクスのキーワードの「メタボリズム(物質代謝)」が、メタボリズム建築という形で、別の形で連想が広がっていっているな、とか。
また、僕がメモ書きを読む時に最も注目するのは、「ここに書かれていないもの」なんですよ。今回「あっ!」と思ったのが、「マルクス」という言葉が出てこないんです。それがとっても面白かった。僕もなんだかんだマルクスの話をしているけれども、この『人新世の資本論』が多くの方に届いているとすれば、単なるマルクスの本と思わないで、地球環境の危機のことや、どんな未来社会を作っていくべきなのかについて書かれている本だと認識されているからだと思うんです。
だから、マルクスそのものよりも、そこから出てくる結論の方を光嶋さんに書いていただいて、僕のメッセージが伝わっているなあと感じられたのがうれしかったですね。
建築におけるコモン
光嶋 なるほど、そう言っていただけて僕もめっちゃ嬉しいです。「書かれていないことに着目する」のって、面白いですね。たしかに、不在を意識するには、まず大前提としての大枠みたいなものを共有してないと、それは見えてこないということでもありますよね。
さて、今日のテーマ「コモンのつくり方、ひらき方」ということですが、まずは、建築的な視点からコモンについて考えてみたいと思います。つまり、建築には民間の「個人の仕事」と「公共の仕事」があります。
個人の仕事は、目の前にいる人と対話していくなかで「ああしよう、こうしよう」と一緒になって生成的につくっていくことができます。一方、公共建築は基本的にコンペが開催され、税金が投入される。なので、あらかじめ予算も工期もきっちり決めないといけなくて、余剰というか、「無計画性」の余地がまったくない。
だから、公共建築にあるべきはずの、対話しながらともにつくりあげる「みんなの建築」が、つくれなくなっている。すべてがコントロールされた、予め計画された因果関係の中に閉じ込められている。建築におけるコモンを考えた場合、思想や考え方が違う他者に対してもひらかれていることがとても大切で、そこにたっぷり「余白」があった方がいい。家の中で例えると「ここはキッチン」、「ここはリビング」といった具合に空間と機能が一対一対応していると、自由な発想、予報もしなかった豊かな使い方などができないから、ちょっと何のための空間であるかわからない「余白性」があった方がワクワクします。
僕の住んでいる家は、自宅兼事務所なので、今僕がいる事務所の空間は家族の過ごす空間とはまた違う、でも、接続している。境界が曖昧なため、明確には機能が決められていない場所があって、それを他者と共有できるかが、建築におけるコモン、あるいはコモンズなんだと思います。
斎藤 僕は最近、どんどん渋谷が嫌いになっていくんですよ。駅の作りがすごく悪い。東横線ユーザーだったので、東横線で渋谷へ行くと、昔の渋谷駅を降りたらすぐハチ公前に出ることができた。でもいまは地下に潜ってしまって、エスカレーターも狭い。毎日使う人たちが置き去りのように思えて、結局は誰のための工事なのかと思ってしまう。
そもそもの話をすれば、大きい街の開発をするというのが、ある種の昭和モデルというか、高度経済成長を前提とした街の発展の仕方だと感じていているんです。私が今住んでいる大阪であれば、維新がやろうとしているIRであったり、さらにそれをリニアにつないでいこうとしている。
でも、これから人口が減っていく社会において、リニアに莫大なお金とエネルギーを使って、わずかな人たちを1時間早く移動させることに、果たしてどれくらい意味があるのか。住んでる人たちに恩恵をもたらさないインバウンド頼りの IRをつくってどれくらい意味があるのか。これ以上の加速、巨大化は、もう利便性をもたらさないんじゃないか、そのコストの方が大きくなっているのではないかと思いますね。
ベルリンの公園はカオス
斎藤 その点で、ヨーロッパは対照的ですよね。光嶋さんと僕はベルリン繋がりがあるんですけど、ベルリンには高層ビルもないし、走っている電車はボロい。ある種の牧歌性みたいなものが残っています。でもそれでも不便さは感じないわけです。
光嶋 僕もベルリンに住んでいて一番感動したのは、街がそこに住む人の時間を定着させる存在であるということ、歴史が都市の姿として刻まれているってことです。どこを歩いていても、そこに脈々と流れている集団としての記憶みたいなものを確かな手触りとして感じるんです。しかも家賃もめちゃくちゃ安くて、部屋が広くて、天井も高い。とにかくベルリンは文化に関することにお金がかからないってことは、すごく大事なことですよね。コンサートにしても、演劇にしても、美術館にしても、すべてチケットが安い。
あと、カフェだったり、本屋さんだったり、日曜日に公園でやっている蚤の市だったり、とにかくブラブラ歩くだけでも楽しく1日が過ごせる。この、ある種の無目的性を引き受けられる器の広さこそ、その都市の文化的成熟度であり、魅力だと思います。カフェに行くとポルトガルのおっちゃんがちょっと不機嫌そうにカフェラテを1ユーロで出してくれたり、そこら中にイベントのパスターが貼られていたり、雑多な情報に溢れていて、とても安心感があります。いつもの本屋さんで出会う人と他愛のない会話が展開して、「あそこで面白い展覧会やってるよ」とか教えてくれたりして、ささやかな偶然にひらかれている。この雑多なものの豊かさは、はっきりした因果関係や効率性とは離れた場所、何が起きるか分からない予測不能なところに宿ると思うんです。他方で、日本だと、パブリックなはずの公園すらもすっかり消費活動の枠組みに取り込まれてしまっている感じが排他的で窮屈ですね。
斎藤 そうそう。ベルリンの公園は本当にカオスで、家族がバーベキューをしている風景があると思ったら、その横の人たちは大麻を吸っていて、遠くの木陰ではセックスをしているカップルもいる。
そういう状況に比べると、日本の公園はバーベキュー禁止、球技禁止が多い。公園だけでなく、どこも均質的な空間になってしまって、コピペしましたみたいな街になってしまっています。こういう街作りになってしまったのは、私たちがコモンとしての「公共性」よりも、「経済性」を軸に街を発展させてきたからで、それが結果的にこの貧しい状況をつくっているということを自覚しないといけない。
資本主義がイノベーションを引き起こして、みんなが自由になって、消費者にも生産者にも夢があるみたいに思われていたけれども、多様でも自由でもないんですよ。結局お金を持っていないと私たちは友達と会うこともできないし、無償の空間である、コモンと呼べる空間は本当に少ないですよね。