第25回
せい
2020.07.08更新
いつか死ぬのか、と声にはしていない呟きが去来する。よくあるのは買い物の帰り、家までの道を歩いているとき。夕闇の空にうすく浮かぶ雲のようにぼんやりしていると、わたしの様子に夫は気づく。
「どうしたの?」
「いつか死ぬのか、と思って」
「そりゃそうでしょ」
「だから何をするってわけでもないんだけど」
「まあね」
いつか死んでしまい、意識も消える。ああ嫌だなあ、こわいなあ。小学校にあがる前、6歳くらいのころ頻繁に考えていた。もう自分は小学生になってしまうのか。するとすぐに中学生になってしまうのではないか、すると・・・と時間のはやさがこわかった。居間にいるのはなんとも退屈なのに、全体の経過はそれとは対照的だった。
似たようなことを考える子は昔も今もいるような気がする。きっと特別なことではないだろう。こわいからといって塞ぎこむわけではなく、過剰な行動にはしるわけでもなかった。身近な友だちが好きだったし、毎日元気に遊んでいた。
32歳になって、母の亡くなった年齢にまた近づいた。そうか30代半ばで死ぬというのは、ほんとうに早いんだなあ。わたしは今の自分の頼りなさやわがままさ、料簡の狭さをかんがみ、母にもそういうところが残っていたかもしれない年齢だったかと思うと、若かったのだとひしひしと感じる。知ることも成長することもまだまだできたのだ。
どんなことがあっても演技の仕事を一生つづけたいと思っていたのに、緊急事態宣言中はそもそもの人との関係性を築く前提が崩れ、身動きのとれない状況になっていて、家にずっといると、大袈裟だが、なにも成し得ずただ死に向かっているだけかのように思えてしまっていた。そんなとき、河瀬直美監督が出演された鼎談番組での言葉に救い上げられた。河瀬監督は「静かにすると、人間は生きようとする」と仰っていた。自身もカメラを持ち撮影されることのある監督だからこそ出てくる、人間をずっと見つめてきた人の言葉だと思った。
編集部からのお知らせ
早織さんによる『トーキョーでキョートみつけた』の朗読映像が公開中です(「アートにエールを!」プロジェクト)
総合出版社ミシマ社のWeb雑誌「みんなのミシマガジン」で『トーキョーでキョートみつけた』というエッセイを2018年4月から連載しています。2019年2月に掲載された「よ」という題目のものを、自身で撮って編集した映像にあわせて朗読しました。「よ」は地方(京都)出身者である筆者が東京で生きるなかでの気持ちのただよいを綴ったものです。俳優の活動は2020年で17年目になりますが、自ら生んだテキストを読むという試みはこれまでになかったことでした。ご覧いただきありがとうございます。
〈早織さんによる映像の紹介文〉