朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第12回

「俺の腕だよ」という「普通」を疑う(後編)

2024.11.06更新

(前編はこちらから)

 それでは、この「自分のからだに本質的に埋め込まれている能力観」はいつからわれわれの「普通の感覚」になったのでしょうか。僕の考えでは歴史的に見ると、「銀貨が多くの人のポケットにじゃらじゃらとあるものになった時」からではないかと思います。
 祝田秀全著『銀の世界史』(筑摩書房、2016年)を読んでいると、ボリビアのポトシを圧倒的な中心とするアメリカ大陸から銀がヨーロッパにもたされる前は、今の僕らが「普通」だと思っている形での「お金」という人工物は、実は一般的ではなかったということが分かります。
「お金の起源は太古の昔で、もともとは石だの貝だのが使われていた」と聞いたことがあると思いますけど、どうやらあの石や貝と今の僕らが思うお金は、現実にはだいぶ違うものだったようです。
 簡単に言うと、少なくともヨーロッパでは、ポトシから莫大な量の銀が入ってくる前は、ふだんは「ツケ」で取引していたようです。農民なら、春に鍛冶屋で支払いをツケにしてもらって、秋に収穫物で払う、みたいな取引ですね。そして、貨幣は、年末にどうしても差額が発生した時とか、非常時に決済するための、貴重な「便利もの」だったようです。
 そのためにコインには、額面にある「いくら」という価値以上に、 「イザという時にカタをつけられる便利もの」という付加価値がありました。つまり、コインを持っていること自体が価値で、質の良い銀貨(当時、銀の含有量を落とした、悪い銀貨は社会問題になっていました)には、額面以上の価値が認められていました。銀は貴重だからコインとして使われ始めましたが、逆に言うと、貴重なので、もともとコインはたくさんはなかったわけです。流通量が足りないというより、 流通量が少ないからこそ、価値があったわけです。
 ところが「南米からヨーロッパまで莫大な量」の銀が入ってくると、人のポケットにじゃらじゃらと銀貨が入っている社会がいよいよ出現しました。スマホの登場によって、「待ち合わせ革命」や「買い物革命」「振込み革命」などの社会が出現したように(このことは第10回でも触れましたね)。
 銀貨は保管しておいてイザという時に使うものから、 多くの人のポケットに入っている、しじゅう使えるものになったというわけです。そういう変化って、人の行動を当然変えますよね。それでは、ポケットに銀貨じゃらじゃらの社会は、ヒトの行動をどう変えたのでしょうか?
 まず考えられることとして、移動とか、引っ越しは楽になったでしょう。「土地に縛られることがなくなった」とも言えます。それまでの「富」と言えば、畑があるとか、家畜を飼っているとか、作業場を持っているとか、いわゆる土地に基づいた、土地ベースの富だった。もちろん、畑や家畜や作業場は持っては歩けない。ところが銀貨なら、自分の富をポケットに入れて移動できますよね。
 銀貨という形で、自分の富をポケットに入れて、自由に、新しい場所へ。新しい都市へ、新しい国へ。土地に縛られることなく。土地だけでなく、人にも縛られることなく。
 わざと悪い言い方をすれば、人付き合いってめんどくさい。ツケってめんどくさい。あの人に借りてる、あの人に貸してる。あの人払ってくれるだろうか。今お金ないから、会いたくないな、などなど。
 しかし、銀貨でその場で支払いにケリをつけられれば後腐れはないのだ! お金を払う、立ち去る。二度と会わなくても気にしない。話をする必要だってない。言葉が通じなくたっていい。お金と品物の、一回きりの交換、一回きりの関係。さっぱりと、すっきりと、クールに、都会的に!
 他人とは距離を持って、「個」と「個」に分かれて暮らす。 妥協に満ちた、 お互いへの不満を抱えた「私たち」ではなく、妥協しない「私」として暮らす。一部屋の豪邸(ワンルームマンション)に分かれた、お互いを知ることのない隣人たちのように。
「私たち」というしがらみや、めんどくさい他人から解放されて、バラバラになって。こうやって「私たち」は「個人(individual)」になっていたのではないかと思います。「individual」は、「in+dividual」という構成で、「divide(わける)」という動詞に由来する「dividual」に、否定の接頭辞「in」がついた単語です。「individual」の語源は、直訳するなら「不可分」、つまり、「もうこれ以上わけられない」という意味であり、それが今日の「個人」という意味になるのは、ようやく近代になってからのことですよね。
 しかし、いくら「自分の能力」や「個人のもの」という言葉遣いが「普通」になっている時代でも、現実問題として私たちは何かに依存しなければ生きてゆけません。これはまぎれもない事実です。考えてみると、僕が今「ミシマガジン」へ投稿するために原稿を書くことだって、たくさんの人びとや道具や設備の援助があり、それに支えられて遂行していることがわかります。たとえば、締め切り前に、僕が「今日こそ、原稿を完成するぞ」といって、原稿を書き始めたとしましょう。

「いま使っている、パソコンは自分で作ったの?」
と問われれば、
「いいえ、ネットで買いました」
と言うしかないですよね。
「ローマ字入力は自分で発明したの?」
「いいえ、誰かが発明したものを使っているだけです」
「ローマ字は?」
「いや、それは顔も知らない昔の人が」
「インターネットは?」
「やっぱりこれも多く人の発明品です」
「それでは、『俺の腕だよ』という『普通』を疑う、というアイディアはあなたのオリジナリティ?」
「いいえ、とんでもありません。数多くの先達の受け売りです。」
「投稿先のミシマガジンはあなたが作ったの?」
「いいえ、そんなわけないでしょ」
・・・・・・
「それじゃぁ、文章を自分で書いているなんて言えないね」
「まったく、そのとおりです。僕はひとりではなにもできない人間です」

 私たちはふだん音声を用いてコミュニケーションを行います。でもそのときに「音声によってコミュニケーションをすることを思いついた人類の始祖」に感謝するという習慣は持たないと思います。文字を用いてコミュニケーションを行うときになると、 「文字の発明者」についてはそれよりはいくぶんか人間的近しさを覚えます。本を読むときにグーテンベルクとその活版印刷術の発明に対して抱く感謝の念はそれよりさらに強い。そして、「ミシマガジンに原稿を投稿する」というインターネット・コミュニケーションということになると、私どもは「パーソナル・コンピュータ」という概念そのものを生み出したアップル社のジョブス&ウォズニアックと、ARPAネットを作りだした米国防総省高等研究計画局のみなさんに多大の恩恵を蒙っていることを身に染みて実感することになります。
 ネット・コミュニケーションほど「ひとりでは何もできない」ということを日々具体的に思い知らせてくれるメディアは他に存在しないと思います。 文字を書くという行為であれば、紙やペンがなくても、泥に指で文字を書き、壁に血文字を記すこともできる。しかし、インターネット・コミュニケーションでは「無数の他者の協働」が介在しない限り、私たちは文字ひとつ書き残すことができないんです。
 インターネットと「ひきこもり」はよく因果関係の文脈で語られますよね。「うちの子は、ひきこもってインターネットでゲームやチャットばかりやっているんです・・・」というふうに言うのが「普通の感覚」です。
 だが、これはある意味ではむしろ健全さの徴候ではないかと僕は思います。というのは、完全な社会的孤立に耐えることのできる人間など存在しないからです(それは定義上「人間」ではないんです)。そして、ひきこもりの人々がインターネットを選択するのは、 インターネットは個人を決して孤立させないからではないでしょうか。
 キーボードを押してディスプレイに何らかの形象が浮かび上がるその瞬間に、すでに操作者は無数の他者からの 「贈り物」を享受しているわけです。 インターネット・コミュニケーションは私たちをいきなり「先行世代の無数の善意と創意を無償で受け取っている受益者」というポジションに置いてくれます。
 このことは私たちの意識には必ずしも前景化しませんが、私たちの身体はそのことを深く実感しているはずです。
 私たちがディスプレイの前にいくら長時間でも座り続けていられるのは、メディアの定型的な説明(それこそ普通の言葉遣い)が言うように、「そこでなら他者と繋がりをもたずに済む」からではありません。そこに座っていられるという事実そのものが、私たちが「贈り物の受益者」であるということを、言葉を換えて言えば、無数の他者に繋がり、彼らからの贈り物を享受し、彼らに承認され受け容れられている存在であることを実感させてくれるからです。
 原稿用紙にペンで文字を書く場合、書かれた原稿が筐底深くに秘蔵され、百年後に発見されるまで、その文学史的意義に誰も気づかなかったということは可能性としてはありうると思います。しかし、インターネット・コミュニケーションではそのような「孤立」は原理的にありえない。というのは、そのつどOSを書き換え、ソフトを買い入れ、通信プロトコルを整合させ、送受信者間のコミュニケーション回路の確保」のために膨大な時間とコストを割くことを厭わない人間しかこのコミュニケーションには参入しえないからです。
 ネット・コミュニケーションの場に、仮に「誰も私のことを理解してはくれないだろう」というようなメッセージを書き込んだ人間がいたとしても、彼はおのれの「孤立」や「無理解」の苦しみを正しく受容してくれる受信者といつかどこかで出会えるという深い確信に領されていると思います。そうでなければ、そもそもそのようなメッセージを発信することさえできないですからね。
 そのことはインターネットがもたらしたもっとも劇的な貢献の一つが「瀕死の言語の蘇生」であったことからも知ることができます。東欧ユダヤ人たちの共通語であったイディッシュ語は〈ホロコースト〉によってその話者のほとんどを失った。東欧やロシアの小集落やニューヨークのユダヤ人街やエルサレムの一隅に住む老人たちの間にわずかに残存するだけで、語り継ぐ次世代を失いつつあったこの「瀕死の言語」は、世界に散在したわずかな話者たちがインターネットで結びつけられ、ネット上で「イディッシュ語でチャットする」機会が与えられたことで奇跡的な蘇生を果たしました。「私の言葉を聞き届けてくれるひとが、どこかにいる」という希望がある限り、人は語り続けていられる。インターネットはその平明な人間的事実を私たちに改めて教えてくれたと思います。
 もう一度繰り返しましょう。インターネットがコミュニケーションの場として成立するのは、それが「言葉は必ず聴き手に届く」という確信をわたしたちに与えてくれるからです。
 私たちがコンピュータのディスプレイの前に座ってキーボードを叩くという行為は無数の他者からの無償の「贈り物」を享受することなしにはなしえないという原事実が、私たちの「すでに繋がっている」という確信を担保している。
 仁も、「これまで手術を成功させてきたのは、俺の腕じゃなかったんだよ。今まで誰かが作ってきてくれた薬や技術、設備や知識だったんだ」とつぶやいたとき、自分が「すでに繋がっている」ということに気づいたはずです。
 ネット・コミュニケーションの場で、私たちは純然たる「始点」や「起動者」であることができません。私たちはこのコミュニケーションの次元にすでに遅れて到来したのであり、すでに先行世代から豊かな贈り物を受け取った状態で登場した。だから、私たちがコンピュータの前でキーボードを叩くとき、それはそのつどすでにある種の「応答」になるわけです。
 ですから、ネット・コミュニケーションの影の部分もまたこの原事実のうちにあると思います。
 コミュニケーション失調には二つの方向性があると思います。一つは、私の言葉を理解してくれる人はどこにもいないという絶望に取り憑かれることです。もう一つは、その逆に、私の言葉を誰かが必ずパーフェクトに理解してくれるだろうという無根拠な見通しのうちに安住することです。
 コミュニケーション成立への過剰な楽観は、自分の言葉を一人でも多くの人に届けようとする努力を放棄するというかたちで表れます。どのような語り方をしようと、必ず分かってくれる人がいるとしたら、どうして修辞や説得術や論理性に配慮する必要があるでしょうか?
 コミュニケーションに対する過剰な楽観論は、毒々しい罵倒の言葉が飛び交う掲示板投稿者たちの語法に典型的に見ることができます。それはコミュニケーションの場に立ったときに、「他者からの贈り物」に対する「応答する義務」 ではなく、「私的所有物の自由処分権」つまり「発言する権利」しか目に入らない人間に固有の語法です。
 自分に贈られた豊かなコミュニケーション資源(例えば、言葉と考え方)に対する感謝をこめて 「応答する義務」によって言葉を差し出す人と、キーボードの前にいる自分を「発信する権利」を持ったある種の全能者のように思いなして発言する人の間には、 深く乗り越えがたい亀裂が穿たれると思います。
 ネット・コミュニケーションが私たちに与えてくれる最良のものは、「情報の速報性」でも「公開性」でも「言論の自由」でもないんです。それは「人間は一人では何もできない」ということ、私たちはそのつどすでに「贈り物」の受け取り手として 「反対給付」の義務を負っているという真理だと思います。
 自分を先行する世代から思想の「遺産受託者」として選ばれた者であると感じるとき、自分のうちにその負託に応える「義務」を感じるか、その特権を甘受する「権利」 を感じるか、それを分岐するのは、知識でも技術でもなく、その人の正味の人間性だと思います。そして、私自身について言えば、先行世代から送られたこの豊かなコミュニケーション・リソースに「権利」の感覚を剥き出しにしてかかわるタイプの人間に対してはどうしても敬意や愛情を持つことができません。
 私たちは自由に語っているつもりのときに、それほど自由ではありません。これは経験的に確かなことです。私たちが自由に操っているつもりの語法は私たちが主体的に選択したものではありません。私たちは「語法の檻」とでもいうべきもののうちに幽閉されている。多くの人は自分が「檻」の中で生涯を過ごしたという当の事実を知らないまま死んでゆきます。
 ですから、「人間は自由に語っていると信じているときに常套句を語り、 常套句を語っているつもりのときに、(しばしば)前代未聞の言を語る」逆説的なことが起きるのです。僕も常套句を書き連ねたはずですが、ところどころ「何をいっているのかわからない箇所」が散見される。これは望外の手柄です。
「私が自分のものだと信じ込んでいる、すべての知識・技能・道具、つまり人工物の背後には、少なくとも三十人の幽霊、つまり三十人の先達の贈与がある」という考え方がいつか「普通辞書」に登録されるまで、僕は話を繰り返したいと思います。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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