第117回
村瀨孝生さんに聞く「若者と介護」(2)
2022.10.18更新
こんにちは。ミシマ社新人の大堀です。
本日のミシマガは先月刊行した伊藤亜紗さん・村瀨孝生さんの往復書簡『ぼけと利他』から、わたしのように介護やケアにあまりなじみがない若い世代は、ぼけのあるお年寄りとどうかかわっていけばいい? という問いを知るべく、村瀨孝生さんにインタビューをさせていただきました。
ぜひ前編と合わせてお読みください。
『ぼけと利他』伊藤亜紗・村瀨孝生(ミシマ社)
風鈴のチリーンを、一緒に感じる
――自分のおばあちゃんだと話すことはあっても、身内以外となると途端に何を話したらいいのかわからなくなるのですが、どういった歩み寄りをしたらいいのでしょうか。
村瀨 共通の話題っていう切り口から考えるんだったら、身体ですね。暑い・寒いとか、美味しい・まずい、天気がいい・悪いとか、そういう自然は大きなずれはないです。言葉がやりとりできないひとでも痛いものは痛いし、気持ちがいいものは気持ちがいいので、感覚的な共有は起こり得ますね。
よりあいに全然入ってくれないお年寄りがいたんです。
車で迎えにいっても、乗ってくれはしても全然降りない、そしてよりあいには入らない。2年くらいほぼまともに入ってくれなくて、職員が交代交代で車でずっと過ごす、みたいな。
それでもずっと一緒にいたときに、その日はものすごい暑い日で、風鈴がチリーンと鳴って「あ、風だ」って僕が言ったら、そのおばあちゃんがははって笑ったことがあったんです。
風鈴のチリーンを、風を一緒に感じて、あーおばあちゃんも暑かったんやなあ、って。だからその積み重ねみたいなものはひとつあると思いますね。
あとは特に専門職の落とし穴で、やっぱり「やることありき」からきてるから、相手がどう眼差しを向けているかという関心がまったくない状態でいっちゃうことがある。
ひとと一緒にいるって、ことばよりも相手がどうこっちを見てるか、見られてるかって感じる時間がまずあっていいんですよね。話題も切り出せないし、こんな話をしたってわからないだろうし、どうしていいかわからないっていう所在無さを、むこうが見てますから。
忘れられないエピソードがあるんですが、就職したばかりの職員が介護職としてバリバリ働こうと思ってくるんだけど、「しばらくお年寄りと一緒にいてごらんよ」と言われてなかなか仕事をさせてもらえない。
「これで給料をもらっていいんだろうか」「介護職として自分はこの職場で信頼されてないんだろうか」と自分のなかで葛藤してるわけです。
そういう風に悶々としてる時に、その様子をおばあちゃんたちは受け入れる側でしょ。さきにその施設を利用してるわけだから。職員は後からきてるんだし。その関係性みたいなものを職員はまったくわかってないんだよね。
むこうは「なんか新しいひときたね」「どう迎え入れてあげようか」みたいに感じてるわけで、そういう眼差しで見てる。
で、そのひとりのおばあちゃんが僕のところに来て「最近来た若い子。あのひとノイローゼやろ?」って聞いてきたんです。「そりゃ難しかろが」「どげんしてこう声かけたらよかろうか」って来られて。
所在無くいたり、暗い顔してることを心配して見てくれてて、だから視線とか眼差しとか相手の表情みたいなもので、実は関係はスタートしてるんです。
「あーこれ傷つけたな」と思ったら謝ればいい
――わたしの話になってしまうんですが、わたしの曽祖母がホームに入ってから、会いに行くと同じ話をずっと何回も何回もしていて、最初は「ああそうなんだ」と新鮮な気持ちで話を聞いてたんです。
でもだんだん何度も同じ話を聞いてると「どういう風に自分は返せばいいんだろう」とか、けれども相手はごく自然な流れで話している状態にも見えて、すごく自分のなかで困惑した思い出があるんですが、どう受け止めればいいのでしょう。
村瀨 そうだね、やっぱり家族と他人って関係がちがうから。他人行儀になる必要もないし、まあ同じ話をそう何度も何度も聞いてたら、そりゃ飽きるよね(笑)。だから「おばあちゃんもう聞いたよ」って言っていいんじゃない? って思いますけどね。
(左から編集者/ホシノ、インタビュアー/オオボリ、下/村瀨孝生さん)
でもね、むこうはへこたれないからね。むしろこっちの言葉が届かないくらいに同じことを繰り返してきますから。そういう、僕らには持ち得ない絶対的安定がむこうにはあったりするんです。少々なことでは傷つきません。だから家族だとそれが通用したりしますよね。
他人から「おまえいい加減にしろ」「その話何回も聞いたぞ」って言われると結構きついですよね。ダメージの受け方は多少ちがうのかなと思います。
ただそこは家族もときどき優しくできる時がありますから。そのときの「へえそうなのー」ってほとんど芝居で、でも芝居打ってても、おおかたむこうにはわかってるんです。なかなか騙せないんですよ、実は(笑)。
いとも簡単に信じてくれるけど、けれども騙せないって存在ですよね。あるいはもうずっと信じてもらえないか。
家族って、真面目なひとほど、やっぱり介護職から介護学んで、そしていい介護しようって思われるんですよね。そういう真面目な態度って、僕はすごく大事なことだと思うんです。だけど家族の場合、そうすればするほどそう簡単にはいかないので、特に孫との関係より"肉親との関係""血肉を分けた親子の関係"のほうがすごく難しいんですよ。
母子関係や父子関係は自分のなかに相手がいるし、介護してるとその僕のなかにいる自分から介護される、なんてことにもなりかねないわけですよ。人間としてはまったく別の人間なんだけど、生活様式や遺伝子的な形式を含めて、非常に近いから。母は僕から介護されてるけど、ある意味、僕のなかにある自分から介護されてる状況でもあったりする。
その拒絶や受け入れが他人ほど楽じゃないって僕は感じてるところがあって、だからあまりいい介護しようって思わないほうがいい。
もう笑って泣いて、介護するしかない。行き詰まって叩きそうになったり、傷つけそうだなって思ったらもう離れるしかない、っていうような感じなので、結構自由に介護していいと思います。
大事なのは、身内であろうが他人であろうが、「あーこれ傷つけたな」とか、いまの自分の態度は傷つけたなって思ったら、謝ればいいんです。それだけ。謝ったらいいんです。
「すみません、ごめんなんさい。ちょっといまの言いすぎたね」とか。で、素直に謝れなかったら、つぎのときにすごく優しくすればいいんです。そういうときは反省してるから優しくできますから、家族でも。
――今日お聞きしたいと思っていたことが、すべて自分のなかで、なにかしらうまくやろうとしていたんだなと、とても思いました。
村瀨 でもそれは誠実だってことで、すごく大事なことですよ。やっぱりうまくやる態度も必要です。けどうまくいかないからね、ほとんど。だから開き直りもいるし。
常に相手の態度から修正すればいいんだと思います。常に相手の態度から。たとえ相手に言葉がなくても、表情って死ぬまで残りますから。こうしようああしようってあんまり先のことを考えなくていい。事後的態度でいいんです。
「未熟であること」が武器
――冒頭で『ぼけと利他』を読んで、いままで思っていた無意識な固定概念がガラガラ崩れたとお伝えしたと思うんですが、いま本当の意味で崩れたんだと思います。まだ崩れきっていませんでした。
村瀨 いや、そういう意味では、それが若いってことだと思うんですよね。
なんかその若さみたいなものを取り繕う必要って全然ないと思うんです。うまくやりたいとか背伸びしたりとか、カッコつけたいってことも隠す必要はない。隠す必要はないっていうか、そこから入ればいい。
言葉を選ばずに言えば、「未熟である」ってことが武器なんだと思います。お年寄りはね、未熟なひとの方が好きですよ(笑)。70年80年生きて、自分よりも立派なひとが来たら困るから。よく喋るひとより喋らないひとの方が好きです。
――へーそうなんですね!
村瀨 これ非常に一般的なことを言ってますが、でもそれ僕も見てて思います。
うちの職員にも本当に全然喋らない職員がいたけど、喋らない職員の言うこととかケアだけはすっごくちゃんと受け入れるんです。
そしてそれはね、むこうがケアしてるんですよ。「あの子なんか障がいがあるっちゃなかろうか、しゃべれんじゃなかろうか」とか言って、一生懸命「あんたこげんしてもらいたいとね〜」とか言ってむこうの方が、常にね。だから彼が指差すだけで「こっちでいいとね?」みたいな感じで。
――『ぼけと利他』を読んでまだまだ咀嚼しきれていないと感じたのですが、今回のインタビューも何度も思い返して、またちゃんと理解して理解して、反芻していきたいと思います。
今回は本当にありがとうございました。
村瀨 ありがとうございます。
老いってひとつの救いなんだと思いますね。自分のなかにある内なる自然ですから。どうにも変えられない自分がその型のまま老いていって、なのに年をとって忘れることで、集中力が続かなかったり、相手を許す存在になっていく。だから安心していいんだと思います。修行しなくても自分らしくちゃんと仏になる。
今回のインタビューを通して、また一段と理解が深まったような、と思えばより深い問いの森に落ちていくような感覚になりました。
理解できないことと向き合うこと、わからなさのなかでしか向き合えない、見えてこないものの究極こそ、ぼけなのかもしれません。そして答えがないことが唯一の答えのようにも感じました。
インタビュー中でもおっしゃっていたように、わたしたちが見ているものは病理ではなく、なにか固定化されたイメージなのかもしれません。
『ぼけと利他』は単に役立つ情報の本ではありません。ひとつひとつ自分でも気づかなかった考えを剥がして、立つべきもとに戻り、そこからはじめて広がっていく世界が、ひとりでも多くのかたに届くことを願っています。
村瀨さんこの度は本当にありがとうございました。
(終)
【MSLive! アーカイブ】伊藤亜紗×村瀨孝生『ぼけと利他』刊行記念対談「ぼけの側から世界を見る」
『ぼけと利他』の発刊を記念して、ふたりの対談を開催しました。
"「利他」の問題を考えるときに、お年寄りとかかわることは究極な感じがしています"
そんな伊藤さんの直観をきっかけに、2020年9月~2022年4月に交わされた36通の往復書簡。
書簡は次第に密度と深みを増し、「ぼけ」の側から見ることで、「老い」「利他」「私」「死」といった概念が次々に揺らいでいくような、スリリングで滋味深い一冊となりました。
お手紙を交わす中で、「お会いしたいですね」「この言葉は実際にはどういうイントネーションで発音されるのでしょう?」といったやりとりが、しばしばありました。このたび、満を持して伊藤さんが福岡を訪れ、村瀨さんと久々に対面。そして初めての「よりあいの森」訪問を経て、ご対談いただきました。 ぜひ、「ぼけ」と「利他」をめぐるお二人の思考の最新の地平を、一緒に体感いただけたらと思います。