第117回
村瀨孝生さんに聞く「若者と介護」(1)
2022.10.17更新
こんにちは。ミシマ社新人の大堀です。
先月、伊藤亜紗さん・村瀨孝生さんの往復書簡『ぼけと利他』が刊行となりました。
『ぼけと利他』伊藤亜紗・村瀨孝生(ミシマ社)
「『利他』の問題を考えるときに、お年寄りとかかわることは究極な感じがしています。」
このことばを起点に始まったお二人の対話から、わたしは、自分がいかに認知症や介護といった「大きな言葉」に惑わされていたかに気づきました。
老いやぼけは予期しがたいものであるがゆえに、介護には支配-被支配の関係が生まれがちで、「管理」することに解決の糸口を見出そうとする動きさえあります。でも、この世に生を授かり、生きてまた帰っていく、この過程において、老いやぼけがいかに自然な営みであるかを、本書はわたしに思い出させてくれました。
わたしのように介護やケアにあまりなじみがない若い世代は、ぼけのあるお年寄りとどうかかわっていけばいい? そんな問いをもったわたしは、村瀨孝生さんにインタビューをさせていただきました。若者に限らず、ぼけや老いにすこしでも関心のある方に、世代を問わず読んでいただけたらうれしいです。
本日、明日と、2回に分けてお届けします。
(取材・構成 大堀星莉)
目の前にいるひとからしか学べない
――まず、率直に、ぼけのある人にどう接したらいいのでしょうか?
村瀨 ぼけのある人は、「時」と「場」の概念が我々と一致していないんです。時と場が一致していれば、それに応じた振る舞いができるけど、ぼけのある人は「"その人の"時と場」で行動してる。だから、我々から見ると「なにやってるんだ?」ということになるんですよね。
見てる風景がちがうということを、こちらが配慮しなきゃいけないということはあります。でも、考えてみると、ひとの物の見方、感じ方って、そもそもみんなちがうんです。
考えが一致してる! と思っても、話し込んでみたらお互いに全然ちがう認識をしてたということは友だちでもある。そのときは、「いや、自分はこう思うんですけど」「いやいや、わたしはこう思うんだけど」「あー、こうじゃなかったんだ」とやりとりすることでしか、相手が見てる風景は見えないし、こっちが見てる風景も伝えられない。相手からしか学べないんです。
だけど、介護現場では、教科書からしか理解しようとしないひとが少なくありません。目の前にいるひとの言葉を愚直に受け取らないで、「本人の言葉としてコントロールできてない」みたいな感じで耳を閉ざして、「これを読んだら理解できるんじゃないか」という方向にいっちゃってる。だから、ますますわからなくなってしまっているのではないかと思います。
思いきって相手の懐に飛び込めばいいんですよね、付き合うっていうことでいえば。それが相手を信頼するということだと思います。
――私も、「教科書」的な答えを知ろうとしていたかもしれません。
村瀨 「宅老所よりあい」(*村瀨さんが代表を務める特別養護老人ホーム)のスタッフにも、「まず出勤したらパソコンをみないでね」とお願いします。前任者の記録を見ることからスタートしがちなんです。目の前にお年寄りがいるのにね。
たとえお年寄りが言葉を発しなくても、お茶でもすすりながら一緒にいると、「今日はいつもよりすごく食べるなあ」「いつも寝てるのに、今日は目が爛々としてる」「目やにがひどいけど、調子悪いのかな」と気づく。そのひとがこの3、4日どうだったのかっていうことは記録を見なくても、体がちゃんと表現していたりするんです。
(左から編集者/ホシノ、インタビュアー/オオボリ、下/村瀨孝生さん)
勇気を振り絞って、声をかける
――たとえば横断歩道で腰が曲がってるおばあさんがいて信号が変わりそうという状況で、声をかけようと思う反面、それは必ずしもその方が求めている答えではないかもしれないとも思います。どういった声かけや接し方をしたらいいんでしょうか。
村瀨 ちょっとまえの出来事なんですが、仕事を終えて家に帰っていたら、おじいちゃんが信号のところで座り込んでいたんです。なんか様子がちがうな、ぼけのあるひとかなって、直感的には感じていて、僕は行き急ごうとする足を止めてる。だけどいざ声をかけようとすると、頭が「もし」っていろんな想定をするんです。「ただ休憩したいだけだったら変に声をかけたら失礼かな」とか、その思考が、直感を鈍らせるというか。
で、しばらく思案して声をかけたら、やっぱりどうもやりとりから、これはきっと道に迷ってらっしゃる、疲れ果てて、動けなくて座ってるんだなってようやく了解できたんです。でも、35年この仕事をしている僕ですら、戸惑い迷い、そして勇気を振り絞って、声をかけるんです。
でも声を一旦かけたら、相手との流れのやり取りをしていくしかない。そしてそれでいいと思うんです。
で、失礼になったら謝ればいいし、関わってみたけど自分じゃどうにもならない、対応できないとなれば、まわりを巻き込めばいいんです。
「すみません!」「わたしだけじゃちょっと無理です、お付き合いいただけませんか」って誰かに声をかけて、自分一人で溺れない。誰かを巻き込むっていう。なんかそういう感じでいいのかなって思いますね。
一番は勇気、です。そして失敗した時の謝る勇気。失敗は、それは全然失敗じゃない。それは失敗とは言わないんですよね。自分はそう思ってます。
58才でも「かわいい」って言われます
――お年寄りの方からすると、わたしたちの若い世代はどんな風に見えて、どういうことを思われているのでしょうか。
村瀨 いやー面白い質問ですね。「どう見られてるか」。すごく大事ですよね。
とくに介護職のひとは、会った瞬間から「何が足りないのか」って分析から入って、とにかく必要な支援を「すること」からスタートしてるから、一番欠けてる視点なんです。
まあ「若い世代」とくくると僕は一般論からしか言えなくなってしまうんだけど、やっぱり、まずかわいいんじゃないんですか(笑)。
僕はこの仕事をずいぶんやってきましたけど、ずいぶんかわいがられましたよ。
まずお菓子を買ってくれます。移動売店とか。僕いま58ですけど、いまだに仕事場でも、おばあちゃんたちとかから「かわいい」って言われますからね。
実は僕と同じ年のひとが若年性のアルツハイマーで入所してるんです。それこそおとといですけど、玄関先で会って「かわいい!」と言われました(笑)。
58でもそうですから、まあ20代なんてのは、まずかわいいって感じだと思いますし、ぼけが深い方なんかは、むしろもっと対等になってくるひともいます。自分の過ごした時間、自分が何年生きたって概念が飛んじゃう瞬間なんかは。
だから対等に扱ってくれるし、すごいライバルにもなったりする。年下扱いしないで、直球で付き合ってくださるひともいて、でもそれが継続せず、すごい瞬間的だったりもするんです。
ある一定の固定したイメージで登場してくれない。だけど「そのひと」という存在がずっと不変的にあるので、どんな風に見られてるのかなって、こっちが想像する楽しさもすごいあると思うんですよね。
今日はこんな風に登場しようかなとか、そしたら大外れしたりして(笑)。
「あ、そういうモードじゃなかったんですね」って。
――それはどういったことを試みられたんですか。
村瀨 それこそ「かわいいかわいい」って言ってくださる方なんかは、そんなかわいいって言われたらたとえ58でも、そんな悪い気はしないわけです。
それがふさわしいかどうかは別ですよ、だけどそういうプラスのイメージみたいなもので印象を受けられると、それを維持したいっていう気持ちがやっぱりこっちに生じちゃう。
だからそういうモードでこっちがいっちゃう。すると「あなた誰?」「やめてください」みたいなね(笑)。だから、はしごをかけられて外されることはしょっちゅうです。
でもその関係が、いい緊張関係だったりするんです。馴れ合いになりそうでならない。かといってかしこまってると、相手の深い懐で受け入れてもらっていたり。いつも同じじゃないからこそ、こっちの襟が正される、みたいな感じですかね。
そう、だからいろんな見方をされてますよ、日替わりで。もっと言えば分単位で。