第173回
『RITA MAGAZINE』発刊特集 伊藤亜紗×中島岳志×北村匡平×塚本由晴×山本貴光「利他をつくる/つくるの中の利他」(1)
2024.03.27更新
2月に発売となり、好評いただいている、『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』。
3月2日に、本書にも収録されている「利他学会議」の2024年の回が開催され、その分科会のひとつで、本書をめぐり、上記5人の先生方によるトークが行われました。
お話は、まさに『RITA MAGAZINE』の続きのよう。結論ありきではない中で、どんどん話がリンクしドライブし、旋回して、着地しそうになったかと思いきや、また飛ぶ、という縦横無尽の展開。これはもうぜひ、要約したりせずに、このうねりのままにお届けしたい! ということで、ここから4週連続、全19000字でお届けいたします。
『RITA MAGAZINE』をすでに読まれた方にも、これからの方にも、お楽しみいただけたら嬉しいです!
第1週(本日) 何かを意図して設計し、意図せざる者と出会う
第2週 どうやったら時間の帝国を崩すことができるか
第3週 「いる」ことと「する」こと問題
第4週 制度に取り込まれていくテクノロジーに利他はない
『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』帯・裏の目次
なお、ウェブでたくさんの文字を読むのがつらい! という方には、「2024年のいま読みたい、利他の本」フェアを開催いただいている書店にて、トークの一部を収録したフリーペーパーを配布しています。よろしければ、そちらもどうぞ。開催店舗の一覧は、記事の最後「編集部からのお知らせ」に掲載しています。
(構成:星野友里)
1 何かを意図して設計し、意図せざる者と出会う
伊藤 皆さんこんにちは。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センターの伊藤です。今年の利他学会議は、八丈島から配信という形でお送りしています。
ちょうど先週、我々のセンターの活動をまとめたピンクの本、『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか』という、東工大全体にケンカを売ったような(笑)サブタイトルがついた雑誌形式の本を、ミシマ社さんから出版しました。
この分科会は、「利他をつくる/つくるの中の利他」と題して、この本に関わった旧センターメンバーと、本には関わっていないけれども現在センターの中で活動をしているメンバーで、出版記念トークのような形で進められたらと思います。
この本のサブタイトルの「テクノロジーに利他はあるのか」というのは、東工大が科学技術の大学だということもありますが、そういう狭い意味でのテクノロジーだけではなくて、人が何かをつくること、つくってさらに社会とか世界に影響を与えていくこと、そういうことの中の利他を考えたい、という思いもありつけました。それを受けてこの分科会は「つくる」ということをキーワードに、進めていきたいと思っています。
それではゲストの3人をご紹介します。まずは、我々のセンターの初代メンバーであり、初代のプロジェクトリーダーでもある中島岳志さんです。専門は政治学ですが、この本の中では、3章立ての中の第2章、「『野生の思考』とテクノロジー」を主に担当されました。
それからお2人目が北村匡平さんで、ご専門は表象文化論です。センターの第2期メンバーで、2代目プロジェクトリーダーとして活動を支えてくださり、とくに公園の遊具の問題を利他と絡めて考えいらっしゃいます。この本の第3章「「共感」を前提とせずに「共にいる」」を担当されました。
3人目は塚本由晴さんです。今日はそちらはどこですか。
塚本 ここは千葉県鴨川市の、釜沼の集落で、棚田の綺麗なところです。そこで里山をフィールドにしたデザイン教育の実験をしています。
伊藤 塚本さんは東工大の同僚で建築家なのですが、センターのメンバーではなくて、それでもセンターができたときからずっと関わってくださっています。
それから八丈島にもう1人、現センターメンバーで山本貴光さんがいらっしゃいます。ご専門は学術史と称しておられて、専門がわからないぐらい、どんな球を投げても返ってくる博学な方で、センターの中では水プロジェクトに入ってくださっています。利他のことは、直接は考えるミッションが与えられているわけではないお立場ですけれども、読者代表として、この本を読んでいただいた感想を、最初にいただいて、始められたらと思います。
『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』より
山本 よろしくお願いします。『RITA MAGAZINE』を読んでみて、これを雑誌にしたのがまずはエラいと思いました。と言ったらどこからの目線か分かりませんけれど(笑)。これがよくある論集のような形だと、もうちょっと違う見え方になったと思うんですね。論集の場合、書名に即してカチっと構成も整ったものを期待したくなるわけです(そうなっていない場合も多いのですが)。そこが雑誌だと、特集テーマを置いてはあっても、それぞれの記事があちらこちらを向いていてもいい。むしろ雑たるものが思わぬ組み合わせを生む楽しさが醍醐味です。利他について考える場合、ひとくくりにできるかどうかも分からないいろんな物事が入ってきますから、雑誌という器にうってつけだと思うんです。
さて、「テクノロジーに利他はあるのか」というテーマを見て、思い出したことをご紹介します。この雑誌を楽しむ上でも補助線になると思います。
2022年に作家の長谷敏司さんが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房)という小説を発表しています。先日、日本SF大賞も受賞したのですが、これがテクノロジーと人間の関係をめぐるとても現代的な面白い話なんですね。かいつまんで言うと、主人公のコンテンポラリーダンサーの青年が、事故で片脚を失ってしまう。それで義足をつけるのですが、その義足にはAIが仕込んであって、利用者の歩き方を義足が学習しながらチューニングしてくれるというわけです。
AI義足をつくる人は、歩く人が安全に歩けて、転ばないように、誰が使ってもそうであるのがいいだろうという、ある種、利他的な意図で設計している。でも、主人公はコンテンポラリーダンサーです。ダンスをしたい。そのためには、不安定な体の傾け方もいろいろと試したい。しかし試そうとすると義足が勝手に修正してくる。そこでせめぎ合いが生まれるんですね。
テクノロジーは一般的に、より多くの人に共通の役に立つことを設計して共有しよう、という発想でつくられる。でも、このダンサー個人においてはそうではない状態が必要である。そうした一般的なものと個別的なものとの齟齬のような状態がとても巧みに書かれています。まさに「テクノロジーに利他はあるのか」というテーマにぴったりと思ってご紹介しました。
改めて雑誌に戻ってみます。すべての記事にコメントしたいところですが、今日はご登壇のみなさんに関わるところに注意を向けてみます。まず第2章の、塚本さんのお話の中でとても印象的なのが、建築などの設計をするときに、打ち合わせに誰を呼ぶのかという問いです。施主や利用者のような普通念頭に置かれる関係者を呼ぶだけではなく、その場所にいる動物とか植物とか微生物、あるいは空気とか水といった環境、さらにはすでにこの世にいない人も含めた、そういう存在たちも、打ち合わせに呼んだほうが良かったんじゃないかと。
山本 その次に、中島さんとドミニク・チェンさんの対談で、今度は人ならぬ、Nukabotというロボットとぬか床の微生物たちの話が出てきて、先ほどの塚本さんのお話ともつながっていると思いました。人間はどうしても、人間の役に立つことばかりを考えちゃうんだけど、その外側に、本当は関係しているんだけど目に入りにくい、いろんなものがあって、そこまで打ち合わせに呼んだほうがいいわけです。また、Nukabotについてロボットはあくまでも人間が行うことをサポートしているだけで、全自動で便利にしようというものではないという議論があったかと思います。これもまた、テクノロジーと利他の関係について考える上で不可欠の視点だと感じます。テクノロジーでサポートはするけど、人間がやることをちゃんと残しておくと言いましょうか。
山本 それから、伊藤さんが巻頭言で、「利他」という概念について考えていくと、ついには人間であるということに立ち戻される、ということを書いています。これはこの雑誌全体に通じる指摘だと思いました。普段私達は人間としてではなくて、例えば「先生として」とか「高校生として」とか「アーティストとして」とか「親として」とか、「何々として」いう立場や肩書きや役割で生きている。肩書きや役割は、言うなれば特定の目的とセットになっている。そしてその肩書きで行動する場合、肩書きにくっついている目的に照らして利害を判断したりする。それ以外のことは二の次になっちゃうわけです。でも、伊藤さんがご指摘のように、利他について考えていくと、そうした肩書き以前の人間であることに戻されることになる。肩書きの外側にあるものに、もう1回引き戻されるということで、これは打ち合わせに誰を呼ぶか問題と、似た形の話だと思いました。
それから最後に、北村さんの、歓待についての映画(深田晃司監督『歓待』2011)をデリダの歓待論と突き合わせながら読み解くという、全体を振り返るような素晴らしい論考がある。異邦人がやってきたとき、その異邦人には訪問する権利があるというカントの主張に対して、ジャック・デリダは、いや、そうじゃない、条件をつけない歓待が必要なんだと言った。これは今まさに日本で起きている、外国人を「労働者として」なら受け入れる、といった出来事に重なる話ですね。自分たちにとっては有益に思えるなんらかの目的に照らして、役立つか否かで異邦人を受け入れるか否かを決めようとする態度に対して、なんであるかを問わず歓待するという議論です。もちろんこれは理想論で、実際にはさまざまな課題が生じて難しいことですが、その点に着目して論を展開されている。
雑誌全体を通して、ある意図に基づいて目的や機能を設計するけれど、結果として意図せざる者と出会ってしまう、という話になっていて、これが非常に面白かったです。今日は、皆さんに、その後どんなことを考えましたか、というお話を伺えるのを楽しみにして参りました。
伊藤 ありがとうございます。そうですね、「として」というのを、常に言い訳にしていて、それは言い換えると、自分が生きている中で、自分の担当であるものと担当じゃないものを、けっこう分けている。自分が何とかしなくちゃいけない状況だったり対象があって、でも本当は、その外側に、担当外のものがいろいろあるんだけど、それはなかったことにして生きているなっていう。
この前、とある重度知的障害者の入所と通所の施設を見学する機会があったんですけれども、そこは絶対に担当を決めないんです。重度知的障害の方は、自分で「こうしてほしい」とは言ってくれなかったりするので、正解がわからない。担当者を決めてしまうと、今、こうしたがっているんだ、というふうに勝手に決めちゃって、その人の解釈を正解として物事が進んでしまう。それはとても危険なので、常に「最近こういう行動をしてるけどあれは何だろう」というふうに、みんなで解釈を言い合う。会議はめっちゃ長くなるんだけど、そういう関わり方をしている。
利他学会議を開催するときにも、誰々がこのテーマを担当して、他の人はしない、というふうに分けないで、みんなで考える、ということを中島さん提案してくださったのを覚えているのですが、それがこの利他学会の、分科会とちゃぶ台トークでいろんな人がひとつのテーマについて語らう、という仕組みにつながっているんですよね。
北村 山本さんがさっきコメントくださった点、同じように考えていて、やっぱり人文学の研究者が集まって利他の問題を考えると、人間の主体とか意志とか、そういう話になりがちなんですけど、この雑誌は、そういった話がすごく少ないですよね。
それよりもむしろ、人間以外のファクターがどう関わっていくのか、その環境の話をひたすらしている。仕組みや環境システムをどうコントロールするかじゃなくて、どうそれらから解放していくか。それが一貫していて、自分で言うのもあれですけど、すごく面白い、唯一無二の雑誌になったんじゃないかなと思いました。
(「2」につづく)
*続編「2 どうやったら時間の帝国を崩すことができるか」は、4/5(金)に公開予定です。どうぞお楽しみに!
編集部からのお知らせ
「2024年のいま読みたい、利他の本」フェア&フリーペーパー展開店
全国の書店で、「2024年のいま読みたい、利他の本」フェアを開催しております。
本記事のトークの一部を収録したフリーペーパーも、4/2頃から配布予定ですので、ぜひお近くのお店に足を運んでみてください。
いつ誰が困りごとを抱えることになるかわからない、いま。そんなときに、「社会的な役割」をはずして、人間としてどう振る舞うのか、を考えるための道具が「利他」という概念だと、伊藤亜紗さんは書かれています(『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』まえがき)。
ミシマ社では、数年前から、何冊かの利他にまつわる書籍を発刊してきました。今回のフェアでは、「利他」に興味はあるけれど、どこから入っていいわからないという方々に向けて、最新刊を含めた5冊をまとめて、それぞれの紹介ポップと合わせて展開いただきます。
【展開店】
三省堂書店 札幌店
あゆみBOOKS 仙台一番町店
紀伊國屋書店 新宿本店
くまざわ書店 武蔵小金井北口店
丸善 多摩センター店
オリオン書房 ノルテ店
パルコブックセンター調布店
東京大学生協 駒場書籍部
くまざわ書店 松戸店
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紀伊國屋書店 川西店
ジュンク堂書店 明石店
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ジュンク堂書店三宮店
大垣書店 神戸ハーバーランドumie店
紀伊國屋書店福岡本店
丸善 博多店
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