第2回
伊藤亜紗さん×村瀨孝生さん「ぼけと利他」(1)
2020.08.13更新
2020年7月18日のMSLive!では、美学者の伊藤亜紗さんと、福岡で「宅老所よりあい」を運営されている村瀨孝生さんにご対談いただきました。
『どもる体』『記憶する体』などの著書において、「体を持つ者」としての人間の感覚をベースに、意識や時間について考察を重ねてきた伊藤さんが、最近研究のテーマとされている「利他」を考えるうえで、ぜひお話ししたいと考えられたのが村瀨さんでした。
計画に対して真面目であることの落とし穴、相手の情報を知っているというだけでそれが暴力になりうるということ、介護は分解のお手伝い等々、考えさせられる話題が目白押しの対話の一部を、2日間にわたってお届けします。
伊藤亜紗さん(左)と村瀨孝生さん(右)
「ぼけ」と認知症、どう違う?
伊藤 今日のテーマは「ぼけと利他」ですが、「ぼけ」という言葉には、「堂々と言っていいものかな」という感じがあります。認知症という言葉ではなく、あえて「ぼけ」と言う、その2つがどう違うと考えていらっしゃるのかを、まずうかがいたいと思います。
村瀨 僕がこの世界に入ったのは33年くらい前です。そのときは痴呆症と呼ばれていました。痴呆症は病気の側面として、「ぼけ」は加齢による当たり前のこととして、僕の認識では微妙に使い分けていました。
介護保険が始まり、呼び方が認知症と統合されたとき、専門的には「ぼけ」と呼ばなくなりました。そのとき、「ぼけは病気とは違うよね」という認識も一緒に捨てられたように感じて、自分としてはいまだに「ぼけ」という言葉を使い続けています。
伊藤 人間が生まれて、成長して、歳をとって死んでいく中での通り道が「ぼけ」であって、それ=病気ではないということですね。
村瀨 そうです。それを病気と言うなら、生まれてきた赤ちゃんも、すぐにはしゃべりませんし、立ちませんし、歩きませんけど「リハビリしようか」とはならないわけですよね(笑)
伊藤 ならないですね(笑)
計画倒れをどこか喜ぶ
村瀨 人間も最後はすべてが機能しなくなって死んでいきます。その期間のどこまでをリハビリするのか、受け入れていくのか、その見切りのようなものが、今はつきづらいですよね。
伊藤 待つのか、介入するのかという線引きがすごく難しくなって、より介入のほうが強くなるという・・・。
村瀨 「その人にとっての利益」という言われ方をしながら、専門職の立場としても介入は良いことになり、そこに迷いや戸惑いが無くなってきました。たとえば「聞き取りをした上でこの人の願いを実現しましょう」と、非常にちゃんとした理念でプランが作られます。しかしそれが本当にその人の願いになっているのかはわかりません。家族も「転倒しないためにどうしようか」ということをどうしても考えてしまう。
伊藤 「本人のために」と専門性がセットになると、そこに向かっていくしかなくなってしまいますね。
村瀨 そうなんです。真面目に一生懸命やればやるほど、そこに当事者が消えていくというのか、つい専門職はプランと向き合ってしまう。誠実で真面目だからこそそうなってしまうことがあります。
伊藤 前回の対談(MSLive!中島岳志先生と土井善晴先生の対談)で、数字のまま料理を作っていても美味しくならないという話がありました。料理を上手く作るためには、指定された作り方に従いつつ、たとえば「今日の食材は大きいから醤油の量を変えよう」といった自分の感覚による即興性が必要。料理は、計画はあるけれど計画をぶち壊すような行為だという話です。
今回のテーマとは少し違いますが、「プラン」はひとつ大きなポイントになりそうだと思っています。計画は必要かもしれませんが、私たちはそれにコントロールされがちなんですよね。
村瀨 僕らが支援をするときに目的や目標がないかというと、そうではありません。だけど目的が立ってしまうと「まだ達成していない」「この人は目的に向かってまだ全然変わっていない」となっていく。それに対する恐れがそもそも僕らの中にあるんです。けれど、お年寄りは目的や目標をぶち壊す。だからそこは心配しなくていいんですよね。
伊藤 「ぼけ」はやっぱり真面目の反対語ですよね。計画を立てることに対して「ぼける」ことは外すことだと思います。
村瀨 とくに「ぼけ」のあるお年寄りはこちらの計画に全く乗ってくださらないし、それを真面目に乗せようとすればするほど、非常に強い抗いを受けます。その抗いが、僕たち支援する側と対等な形で決着すればいいのですが、最終的には僕らが勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊するようなことになります。だから計画倒れをどこか喜ぶところがないと。計画が倒れたときに本人が一番イキイキしていることがあるんです。
「知っていること」も暴力になりうる
伊藤 施設に来るお年寄りと初対面のときは、どうお近づきになるんですか?
村瀨 基本的には前もって調べた情報を職員と共有してお迎えする形が正しいと思います。うちはそういう意味では正しくなくて、情報共有は最低限。お互い知らない、そういう出迎え方をするようにしています。
極端な話をすれば、排泄介助が必要なのかどうかも職員は情報を知らないときがあります。その場合はトイレに誘うのか誘わないのか、声をかけていいのかどうかの葛藤が職員のほうに色濃く出てきます。トイレに行ってからも、踏み込んだお手伝いがいるのかいらないのか、中に居ていいのか悪いのか、全部その人から聞くしかない。
情報がないがゆえに、出迎える側が非常に相手をうかがう状態になる。うちの職場ではそんな出会いになると思います。
伊藤 お互いにわからない状態から探りあっていくのは、本当に出会いですよね。
村瀨 そのときは冷や汗ものですが、(相手の情報が)自分がそのときに発見したものになります。それを話すときの職員が、僕にはイキイキして見るんです。
伊藤 面白いですね。私は障害を持っている人たちにお話を聞くことが多いのですが、たとえば全盲の人が街中で助けてもらうときの非対称性はすごくて。自分が全盲で急に声をかけられたら、「つかまってください」と言われても「殺されるかもしれない」と考えて、とても怖いと思うんです。
村瀨 誰かわからないですからね。
伊藤 でもとりあえず信じよう、と着いて行くことが日常で行われている。声をかけた側は善意の行いとしてやっていると思いますが、それを受け取る側はすごく緊張した上で身をゆだねている。その非対称性がずっと気になっています。人をサポートすることは必要だけれども、暴力的なことにもなってしまえるから、接触する瞬間にものすごく丁寧でないと怖いなと思います。
村瀨 僕らがお年寄りを迎えに行くと、娘さんが「お迎えが来たよ、お母さん何やってるの」と急かすことがあります。それに対してお年寄りは「私はいいから今日は化粧がのってるあなたが行きなさい」「私よりあなたが綺麗だから行っておいで」と言うんです。それくらいお年寄りには施設へ行く理由がありません。
こちらは知っていることで安心してもらおうとアプローチするのですが、知っていることがもう暴力になっている。お年寄りが一生懸命自分のことを話しても、前情報でそれを知っていると、どうしても「情報と一緒」「この人の認知症の深さがどうか」というとらえ方になってしまうんです。
伊藤 どうして自分がここにいるのかすら共有されてないわけですよね。
村瀨 そうなんです。施設へ来る理由のない人たちをどう出迎えて、そしてまたここに来ても良いと思ってもらえるかという出発点はとても重要ですね。
(後半はこちら)