第2回
伊藤亜紗さん×村瀨孝生さん「ぼけと利他」(2)
2020.08.14更新
2020年7月18日のMSLive!では、美学者の伊藤亜紗さんと、福岡で「宅老所よりあい」を運営されている村瀨孝生さんにご対談いただきました。
『どもる体』『記憶する体』などの著書において、「体を持つ者」としての人間の感覚をベースに、意識や時間について考察を重ねてきた伊藤さんが、最近研究のテーマとされている「利他」を考えるうえで、ぜひお話ししたいと考えられたのが村瀨さんでした。
計画に対して真面目であることの落とし穴、相手の情報を知っているというだけでそれが暴力になりうるということ、介護は分解のお手伝い等々、考えさせられる話題が目白押しの対話の一部を、2日間にわたってお届けします。
(前半はこちら)
自分を飲み込むものに沿う
伊藤 村瀨さんのキーワードには「沿う」があると思います。私たちのセンター(東京工業大学の「未来の人類研究センター」)で考えている「利他」の問題にとっても、「沿う」が重要ではないかと思っています。村瀨さんが「沿う」と言うときには漢字を使い分けていらっしゃいますよね。
「穏やかに逝く」ための基本的な条件として、身体の変容に沿う態度が大切になる。一般的には「添う」という字を使うが、よりあいではあえて「沿う」を使っている。「添う」は人を相手した態度に使うが、「沿う」は川や山など自然を相手にした態度に使われることが多い。老いたものは自然の摂理に沿いながら死を迎えるので、それに付き合う介護職も沿う態度が求められるように感じている。ーー『看取りケアの作法』(村瀨孝生著、雲母書房、2011年、36ページ)
私は吃音を持っていて、それには洪水のイメージがあります。自分の中の自然が暴れて本来あるべきものを乗っ取って民家を押し流す、圧倒されるしかないような感覚です。どもるときは自然との戦いという感じがあります。
村瀨 人が亡くなるときは本人ですら体をコントロールできていません。けれどそのわりに、体はうまく協調し合っています。もう食べなくなった状況で、残された自分の中にある水分とエネルギーを、臓器や細胞ひとつひとつが協力し合って効率よく循環させている。
体は死に向かっているけれど、細胞や臓器はもしかしたら人生で一番輝いているかもしれないと感じて、邪魔してはいけないと思います。それは、本人の意思や僕らの意思とは違うところでコントロールされているものに対して、僕らは全くもって無力だから。苦しみをとることは大前提として、それ以外はある意味、僕ら自体も必要とされていないかもしれないと思いますね。
伊藤 自分が老いて死んでいくときは、自分すらも体の変化に飲み込まれていく感じですね。
村瀨 飲み込まれるというのはすごく近いですね。川にのみこまれるように、みんな老いに飲み込まれる。それは流れに合わせるしかないというか、流れにのって行くような感じですかね。
戦略的にぼける
伊藤 わたしは身体を研究していて、身体を論じながらも心身二元論の立場をとりがちです。とくに吃音を語るときはそうなります。哲学的には、とくに現代では心身一元論が主流ですが、それは違うなと私は思っています。うまくいっている人は一元化できるかもしれないけれど、うまくいっていない人にとっては、どう考えても体が自分を飲み込んで、心身分離してしまっている。だから心身二元論で体を考えています。そうして分けることで、逆に自然としての体が見えてくると思っています。
村瀨 とくに死んでいく人はそうで、自分が形式としてやってきたことが通用しなくなっていくときに、心身一元論では考えられない混乱の仕方が生じると思います。
あるおばあちゃんが、夜中に血相を変えて「借金返せ」と起きてくるんです。でも結局トイレに行ったら治まる。逆にこちらが借金どうするんですかと聞きたいくらい借金のことを忘れて寝てしまいます。ああいうのも、体が感じた焦燥感と、心がかつて持ったまったく違う焦燥感を結びつけて起こる。
伊藤 吃音の場合、自分の中の思い通りにならなさと付き合うために、戦略的に「ぼける」ことがあります。
0.3秒前ぐらいに、「この単語は言えないな」となぜかわかるときがあって、言わなければいけない単語に詰まったときは、別の単語に言いかえます。コップと言えなさそうだからカップと言ったり。ずっと待っていると流れは来ませんが、ぼける感じでそらすと川の流れがすっと来たりします。真面目にしてしまうと駄目なことがあるんです。
村瀨 それって、「言えないな」って予感するんですね。
伊藤 予感するのか、そう思って自分で呪っているのか。 それすらもわからないんですけども。
村瀨 そういう意味では僕らもぼけの深いお年寄りと接するときは戦略的にぼけていると思いますね。
ときどき大きな声をあげるおばあちゃんが居て、テーブルを叩いたりもします。それで、集団になっていると必ず「あの人をどっかにやりなさい」とか、排除しようとする動きが起こる。自分にとって重要な場所だからこそ、どうしても規律を乱す人を排除したくなる。そのとき僕らがどう登場したらいいのかということがあります。
それで、とぼけるというか、奇声に合わせたようなリズムでテーブルを叩いたりする。それも介護の世界で言えば、戦略的なぼけで何かをコントロールしようとしている可能性はありますね。
伊藤 コントロールしているけれど、最初の計算されたゴールではなくて、想定していないゴールにむかうという、行き先を変える付き合い方ですね。
介護は分解のお手伝い
伊藤 「利他」の問題を考えるときに、お年寄りとかかわることは究極な感じがしています。自分が働きかけてもフィールドバックがいまいちわからなかったり、違う形で返ってきたり、本当にこれで良かったのかと確証が持てないまま時間が過ぎていくことがよくあると思います。その事実に付き合っていくことは、どんな感じですか?
村瀨 逆に、しっかりと繋がり合うコミュニケーションもあるんです。それはお互いの意識を合わせることではなく、食事や排泄、睡眠です。体が生理的に快適な状態を一緒に目指すことが介護の中心になっています。精神的に不安定だからこちらがなんとかしようということではなくて、その人のペースでゆっくりご飯を食べたり、ちゃんとトイレで排泄したり。言葉によらない生理的な快適の欲求は同じなんです。
それは毎日行われる行為だから、それがどう快適であるかに、こちらの体をシンクロさせていきます。そうしていくと精神的に荒れることや興奮することが最初から起こらないんです。
伊藤 一般的には、生理的欲求の上に人間らしいものが乗っていて、上のほうが価値が高いと思いがちですよね。けれども精神的なものを支えているのは生理的なもので、生理的なものをしっかりさせることが、実は一番人間らしかったりするということですよね。
村瀨 そうなんです。
伊藤 つまり瞬間だけ一緒にいるのではなくて、ずっといる。まさに「沿う」ですね。ずっと沿っていると相手の時間がわかってきて、もしかしたら自分の時間と合ってくるかもしれない。
村瀨 とくに排泄は、その人の排泄だから絶対僕らにはわからないはずなんです。だけど今のタイミングでトイレに行っておこうかなと思うことがあります。それで行ってみたときに、その人が堰を切ったようにおしっこすることがあって、それを聞いていると自分が排泄したくらいの爽快感が生まれたりします。
これは僕だけの経験ではなく、他の職員もそういう経験をしているんです。大根のような排泄物が出たときは、流す前に他の人と共有したりして。そのときかかわった職員はおそらく自分の腸が空になったような気持ち良さを感じるんじゃないかと思います。
伊藤 近代化されているから、私たちは普段そういうものを共有しませんけど、お話を聞いていると共有してもいいんじゃないかと思いますね。
村瀨 考えてみれば分解の成果ですよね。介護って分解のお手伝いをしているなと思います。食べることも分解の始まりですし、快適に出るように手伝うのも分解。その文脈でいくとおばあちゃんたちは一生懸命分解をしているわけです。
伊藤 ある種、分解の究極は体が分解される「死」なわけですよね。食べて分解して排泄する延長に、人間が生まれて成長して死んでいくことが見えてきますね。
村瀨 その人の体に寿命が来たのかどうかが、今はよくわからなくなっていますが、順調な分解・排泄を助けて、最後にその人が本当に分解されていくことが死だと思うと、僕らがどういうスタンスでそこに登場するといいのか、ということが見えてきますよね。
伊藤 村瀬さんは人の体に触ることをよく書かれています。それは触ることでその体がどう死に向かっていこうとしているのかわかる、ということだと思います。
村瀨 そうですね。その過程は最後まで衰退には見えず、すべてが連携しあっている見事な状況だと思えることがあります。
ここに収めきれなかったお話もたくさんあり、村瀨さんがお年寄りたちのやり取りを再現されるお話の、なんとも言えない絶妙なニュアンスは、実際の語り口で聴いていただいたほうが断然に伝わると思います。動画アーカイブを8/18(火)まで販売しておりますので、ご興味を持たれた方は、こちらからどうぞ!