学ぶとは何か 数学と歴史学の対話

第28回

回顧と分析(伊原康隆)

2022.12.20更新

 歴史学者の藤原辰史さんと数学者の伊原康隆さんによる、往復書簡の連載です。昨年10月からはじまったお二人の連載、今月が最後の掲載となりました。藤原さんから伊原さんへの前回の便りはこちらから。

伊原康隆>>>藤原辰史


 ご書簡有難うございました。お陰様で私は大変勇気づけられ、さらに相互依存関係

「学ぶ」⇄「自由で平和な社会環境」

をあらためてはっきり意識させられました。自由で平和な環境は学びの基盤、自由な学びは社会の平和の基盤でもある。「そんな悠長なことでは間に合わないよ」という声も聞こえてきます(実は私自身の内からもです)。しかし通奏低音は「悠長な気分を保つこと、これは学びの本質だ」と奏で続けます。歴史学と数学の相違もあり「学ぶとは何かーー数学と歴史学の対話」における数学側の代弁者の立場も「そこから目を離すな」と呼びかけます。

 今までの往復書簡を読んでいた妻は、藤原さんのは往復書簡だがあなたのは独白に近いと申します。その通りでごめんなさい。まあ周期や間隔の長さの相違もあり、直接引用、直接対応の言葉は少なくても、根底での影響を受けつつ書かせていただいておりますので、ご勘弁ください。

 表題の「回顧」は私からの書簡の流れの動機の展開に沿った復習になります(§1)。そして「分析」は(前回予告したように)スマホ検索やAI に出来ること出来ないことの数学者的分析(§3、5+補足ファイル)ですが、それは人間の短視眼的競争意識(§2)と、人類が到達した認知革命で「人間とAI はそれぞれどの段階にあるか」を見極めること(§4)と関連していますので、それらを挟んで述べることになります。藤原さんの今回と相補的かと思います。 

1 私からの書簡の動機的なつながり

「学ぶとは」について自由に書かせていただいてきましたが、私はクラスの優等生だったことはめったにありませんでした。好きな科目と能力が偏っていたからでしょう。でも先に進むほど楽しくなったのだから、それでまあよかったのだろうと考え、まず学びにおける「習」と(生徒発の)「探」を意識的に分けようと提案しました。これらは両者のバランスが大切ですが、日陰に置かれた感じがする「探」の意義を強調したわけです。

 これに「能」を加え、日常生活での意識にまで広げた上で、なぜ日本では「探」がなおざりにされているのか考えました。すると、「探」の気分を一般化した「〇〇したい」「自由意志に基づく選択を尊重してもらいたい」に相当する日本語が「弱い!」ことに根本的な原因があると感じ、他国語と照らし合わしての分析を二、三回試みました。「上に遠慮したものいい」の習慣が、「個人の心の方向を表す基礎的な動詞の欠如」として固定してしまっているからだろう。これが私の総括的感想です。少なくも学びの「探」に遠慮は不要!

 そこからは自分の好きな分野だった理系(と音楽)を念頭においた話が中心になりました。これらの分野に共通なのは、基礎となる考える力(や感じる力)を養うことは人間としての成熟とは独立に「早くから始めるほど良い」ということ。スポーツや将棋などでも言われていることです。人文科学とはここが違うのでしょうね。私の「学ぶ」の話が初段階中心だったのも、このためでした。

 自然を支配する法則(理科)またはその奥にある抽象的な関係性(数学)、これらの美しさに異常ともいえる強さで惹かれ、そのなかに「自らを埋没させる」。この表現がぴったりなのが理系の「探」の学びでしょう。ここで「美しさ」とは(以前にも釈明したように)見かけ上の「乱れのない整然さ」のことでは決してなく、驚嘆し「ああこれだから!」とストンとくるもの、という意味でした。そして幸いこれらには、先人たちが残してくれた「手本」があります。この言葉も反発を招きやすいようでしたから「しっかりした踏み台」と言い直してみました。

 昨年の暮れから正月にかけては「本物とは?」についても論議しましたが、今いいかえれば、本物とは「後世の手本、つまり踏み台になりうる」機能を有する作品、とも定義できるでしょう。それらが人の心にもたらしてくれる共通感覚は、まずは啓発されることですが、この夏以来の話題は その底には調和に包まれた「安定感」「安心感」が広く行き渡っており、それを大勢の民が共有することも平和への静かな基盤になるのではないかということでした。 そしてこの「〇〇感」も、人間の生理に基づいている以上、百万年単位の普遍性を有するものだろう。普遍なものを求めたいというのも「学び」の夢ですね。では「対象把握方法の意識革命」は?

 パラダイムシフトを生じる「踏み台を蹴って飛ぶ」と、踏み台にある安定的な調和感を「無視する」との間には、正の関連性があることは疑いないでしょう。ただし、大きな飛躍であればあるほど「従来の言語で乱暴に表現できるものではない」とも思います。ここでも我々の言語に対する感覚と音楽家の音に対する繊細な感覚とを是非比べてみたい、こう考えたのが夏以降の私の話になりました。

 さて、人文科学は「大人の学問」ということに異論はないでしょう。私自身は、違和感に対する敏感さとそれを避けたがる欲求の強さを自覚しておりますので、残念ながら大人の学問には向いていないと感じております。矛盾に気づき「矛盾が出たら出直し」というのが数学、「数学的違和感に対する敏感さ」なら生かせる。でも人間社会が対象の学問では「矛盾の存在は大前提」。その中で、美的調和を楽しみにするでもなく、醜い現実と矛盾を直視しながらなされる研究ーー社会にとって必要不可欠で自分には出来ないことーーに長く携わっておられる先生方には、改めて表明させていただきますが、従来から深い敬意を感じております。

 そしてわれわれ共通の思い「大学における『すぐ金にならない』基礎研究を守っていこう」については、5月号(全般)8月号(理性云々)で書かせていただきました。前後の藤原書簡と合わせご参照下さい。数学分野に関しては以前からご理解いただいているのですが、8月号のポイントは、より広い地球環境の研究などでも「地道な基礎研究と警告に携わる informer 側」と「企業と結託し隠蔽しようとする disinformer 側」(McIntyre 氏の言葉)に峻別されるのだ、文系の先生方にも理系におけるこの峻別を是非ご理解いただきたい、ということでした。

 文と理の相互理解と協調、共闘のためにも。

2 勝ち負け優越感と劣等感

 今のNHKの朝ドラで、航空科の学生達が怖い教官から飛行テストを受ける話が進んでいるのですが、なぜか「鬼教官」に「勝つとか負ける」とか、人命を預かるのに必要な能力の客観的判定の問題が人間関係の問題と取り違えられている。

 自分の子供時代の教育環境と気分を振り返っても、勝ち負け、優越感と劣等感などの感情から決して自由ではありませんでした。これは興味をいだいた対象そのものへの熱中とのモザイクだったと思います。しかしあるとき(たぶん高校時代)はっきり悟ったのは「それらは忘れ、対象そのものに白紙の気分で当たれてこそ目が開かれる」ということでした。少なくも理数科での第一はあくまでもこれ。他者の意見が妥当かどうかはその上で、その物差しで考える。この習性はどうか十代のうちにつけてほしい。

 学ぶとは狭い社会における人間関係から生じる感情や癖からの解放でもあると思います。「人間は面白いし人間関係は難しい、でも勉強、研究の対象はもっと面白くて難しいのだからこちらに集中しよう‥‥‥」 環境に合わせる妥協前の原点なら、これでしょうか。

 ここまでが藤原さんの今月のご書簡を拝読する前に用意していたものでしたが、ご書簡によって現代の問題が見えてきました。上からの圧力によって学びが特定方向に制限され、同時に勝負感覚も強められるとどうなるのか。思えば父の頃の日本はそれでした 「言うことを聞け、一番を目指せ」。一人息子として母子家庭に育った父は、自分が何とかしなくてはという強い思いから、その線で頑張り続け、後には息子にもそれを当然と期待しましたから、その弊害もよく感じ取れます。直接お国のためになるのでないなら数学が好きというのは単なる「慰み」(いやな言葉でした)ではないか!「学ぶ」ではなく「競争に勝って立身出世を」という時代でした。現在は価値観がはるかに多様ですから多分大丈夫とは思いますが、競技スポーツ(たとえばW杯)で「勝つことの美」が過大に報道され、その影響が学びの分野にまで及ぶことは気掛かりです。実力伯仲なら勝敗は時の運なのに、負けの原因を細部に求めてもそれ以上に偶然(つまり細かすぎて分析不能な原因)が大きいのに、勝ったときの浮かれすぎも太平洋戦争初期の勘違いを思い浮かべてしまいます。勝負という観点を一旦忘れて眺める。繰り返しになりますがこれも学びでしょう。

 さて、与えられた方向でしか考えない、考える代わりに何かに頼る、特に電子機器に頼る、は、藤原さんのご指摘のように互いに関連しあっており、それは正に人間性喪失への道でしょう。そこで以下、数学者の立場でそれを掘り下げてみたいと思います。長くなり「延びること餅のごとし」ですが、正月休みにでもご賞味ください。

3 デジタル機器に頼ると 

 結局頼りになるのは自分自身で時間をかけて築いてきたものだとよくいわれます。ここではそれに「どんなに便利な電子器具に囲まれていても」を付け加えて話をすすめたいと思います。現在流布している認識はどうでしょうか。

 「知」とは(断片的な)知識のこと、
 必要な知識はスマホで検索すれば大抵は得られるよ、
 難しいことは人工知能 AI がやってくれるよ、
 最後までAI にできなくて、人間にしかできないことは何か? それは「消費すること」!

こういった風潮、論調が支配的です。風潮としては、身近な会話においても何か知識について話題になると必ずスマホ検索が始まり、それで終わってしまう。将棋でAIの方が強くなると「将棋では」が「たぶん学問全体でも」に及びそうな雰囲気がただよってくる。

 これらに対する反論をかいつまんで書いてみましょう。

 「知」は物事を「つながりを込めて」理解する捉え方だ、
 つながりの理解は、自分で何度も書いてみて納得し脳内に軸をつくるようなものであり
 スマホ依存では得られないだろう。
 AIも(後述のように)融通が利かない代物だから、できることは限られているよ、
 人間にしかできないことは、消費より高度なものが豊富にあるよ(補足ファイル)。

 知識を道具に頼り切ることは、電子機器の進歩に伴い、それを使わ(え)ないグループに対する優越性を与えてはくれます。しかしすべての選択が何らかの代償を伴うように、それも犠牲を伴っている筈。この場合、犠牲は何?

 これはどうなっているのか? どうすればできるようになるか?

こういった疑問の解決を探る際「まず自分で考え工夫してみる」といった手間をかけない、道具から答えが出たときもそれに従うだけで終わってしまい、

 なぜそれが良い方法なのか、仮にそれを使わなかったらどうか、

等を考える習慣とその力を鍛えるチャンスを失っているのではないか。ところでまさか、そんな習慣や能力は不要とお考えでしょうか? そこで次のポイントが登場します。

 デジタル的な道具が教えてくれるのは、「それぞれ個別」の場合に限定された処方箋であり、他方、自分で考える習慣で身につくのは成り立ちの理由をも感じ取れる「普遍性のある能力」。この差は先に行くほど大きい!このことをなるべく若いうちに悟ってほしいものです。道具に頼り過ぎるのは、人間力という観点では「進化」ではなく「退化」ではなかろうか。さらに、個人の知力を商業主義ーー道具を次々改良し以前の製品を使えなくして売り続けるーーに屈服させてしまうことではないだろうか。

4 動物的能力か、人間水準の知性か

 文献は以前のミニ書評(8月号補足ファイル)にも登場してもらった

 J.Pearl & D.Mackenzie  "The Book of Why"  (Penguin Science 2018)

基本は第1章、 "strong AI" は第10章)です。そこには「人間の認知革命は3段階に分かれて進んだ、AI はまだ第1段階に過ぎない」との丁寧な説明がなされています。「情報をどう受け止めそれを使って判断をどう下すか」の相違こそが以下で述べる段の相違という話です。

1段目は 受け身の『見る』だけで判断(what, if I see ...)
2段目は さらに『介入』によって一部を変えてみて判断 (what, if I do ...)
3段目は 仮にそうでなかったらどうか(what, if it were ...)、
     想像力にも訴えてみて判断(what, if I imagine ...)。

 たとえばネコがネズミの出没口と動きを繰り返し観察し、こう見えればこうすればよいという方針が立ち、それをその都度の捕獲に役立てられるのは第1段、サルが棒切れなどの道具も使って穴をほじくり隠れている獲物までも捕獲できるのが第2段。ただしこれは「ただ上手く使える」段階で、なぜその道具でうまくいったかの理由も考えそれをより広く応用しようとするのは次の第3段。棒切れでも、突っつくだけでなく「テコの原理」を使ってシャベルのように手元と先端が逆方向に動くようにすれば能率が良いこと(支点という新たな存在!)に気づき、テコの原理で重いものを小さい力で持ち上げるなど、その広い応用も出来るようになれば第3段ということだと思います。また「仮にそうでなかったらどうなるだろうか」をも(しっかり)想像して見ることができそれを判断に生かせるのも第3段。

 なお、ここでネコとか人間とかいうのは、それぞれの各個体がその潜在力を遺伝子として受け継いでいるという意味合いです。第1段(の極み)は動物的能力(Animal-like Ability)、第3段は人間レベルの知力 (Human-level Intelligence) という表現が引用されています。ではなぜAI は未だに第1段なのか。

5 AI の能力と限界について 

 AI (Artificial Intelligence) が働く仕組みは「入力されあるいは感知されるデータの流れ」の中から(直接にせよ間接的にせよ)人間によって教え込まれた方法によって判断に必要なデータを選び、教え込まれた手順によって判断を下すのでしょう。たしかに大量データを駆使して人間にはとても出来ない分析結果を出すことができます。

 有限ゲームの一つである将棋では、1次的データは局面(盤面と各自の持ち駒)ですね。それぞれに対して「あり得る次の数回の局面(2次的データ)」の数も、ほぼ一定の範囲に抑えられています。それらの中から「過去のデータに基づいて最も勝ちに繋がった確率の多い局面」に進む手を選ぶのが(α、β、デープ等の)基本のようです。

 しかし一般に「要素の個数」に対して「それらの間にあり得る関連性の個数」は「指数関数的に大きくなる」ことに注意しましょう(将棋の場合、要素は局面、関連性は「局面間のつながり」と対応)。モデルとして平面上にN個の点(要素)をとり、それらの一部を線分で結ぶ多角形(関連性)が何個あるかというと、頂点集合の選択だけでも2のN乗(Nの指数関数)通り、いいかえると関連性の量「の桁数」が要素量と比例して増大するわけです。

 容量の単位としてバイトBに1000倍ごとに KB, MB, GB, TB, ...... と付けた単位が(現在10の30乗倍 QB まで)使われていますが、これが意味することは、要素数Nを一定量(上記のモデルの場合 3/log 2で、これは約10)増やすごとに(あり得る)関係性の量は MB からGBへ、GB からTB へと、この「単位自体」が1つずつはね上がる。成る程これでは如何に大型計算機でも技術の進歩があっても大変だろう、1次データから2次データに進む過程で「Nの大きさに応じた大幅な選択」が必要であろう、と納得できますね。

 そして選択基準を「いちいち具体的、デジタル的に与えないと働かない」のが、忠実な計算機に過ぎないAIの泣きどころのようです。

 一口でいえば「融通が利かない」。

 たとえば家の掃除の依頼。相手が人間なら、家人でなくても、「誰それが今病気だから時と場所を気をつけてなるべく静かに」と頼んでおけば、あとは適宜判断してもらえるでしょう。でもロボット掃除機が相手だと、そのつど具体的に時間帯と場所をセットしてやらないとだめ。

 また自動運転車の場合「ボールが転がってきたら子供が出てくる可能性大だよ」とか「ウィスキーボトルを抱えている歩行者は想定外な動きをするだろう」とか(この二つだけなら対応済みでしょうが)そういった種類の細々したことをデジタル的に表現し直して個別に教え込まないとだめ、という融通の利かなさは機械というものの本質と限界なのでしょう。

 将棋で、ある局面だけで試しにAIの助けを求める場合でも、AI は「勝つ確率はこの手が一番高い」と教えてはくれても「それはなぜか?」は自分で考えないといけないそうです。

 論点がいったんそれますが、関連した二つの疑念にここで触れておきましょう。そもそも将棋をやる主な意義は、勝つことを「仮の」目標として「考える喜びを味わい、人間の考える力を開発する(プロ)」ことではなかったのか。まさか「相手に勝つこと」自体だった? これが人間側からの根本的疑念。またAI 開発にとっても、この種のゲームで人間のプロに勝てる機械を作るのは、開発段階を可視化して世間の理解を得るための「仮の」目的だったはず。それがその競争自体が目的化していないだろうか。これがもう一つの疑念。いずれも、「仮」だったものが競争意識のために目的化し、競争好きの世間にもてはやされすぎているのではないか。

 戻って「AI はまだ第1段だ」となぜ言われるのか、少しずつ見えてきますね。大量に「見る」けれど抽出は必ず必要であり、それは人間の個別の指示に(間接的にでも)依存、また、自分自身が道具だからといって第2段以上ということにもなりませんーーAIが自ら別の道具を発明するわけではないのです。そしてAI は特定の目的だけに使われ、なぜかも教えてくれず、一般化する想像力はもとより持ち得ないから、第3段では、無論ない。

 これらは(知的だが決して将棋の延長ではない)数学研究において、さらに顕著です。以前の6〜7月号で解析、代数それぞれの一端をお話したように、数学の大きな問題を考える際には、まず「構造を適切に広げることで問題の本質が見えるようにする」のです。これは初等幾何学の補助線の効用の延長線上にあり数学が歩んでいる道です。この種の「知らしい知」の発揮は、AIにはとても苦手なようです。一年前の著名な科学雑誌「ネイチャー」に、数学でのAIの役立つ使用法の話が載っていますが、「AIに証明ができる」とは書かれていませんでした。やっぱりと感じました。数学とAI についてのもう少し突っ込んだ話は補足ファイルをご参照下さい。

6 あー難しい、じゃー散歩

 回遊的な散歩は私にも最大級の楽しみです。好奇心と対比させた「好回心」という造語を以前の拙著で提案したほどでした(『文化の土壌に自立の根』)。近くの賀茂川河川敷を歩くとき、あの橋に着くまでにこの補題を証明してみせるぞ、とかいった目的をもつたこともありましたが、より多かったのは藤原さんも(多分同様の趣旨で)書かれたように、アイデアが混迷したままで何となく歩き回ることでした。それは無意識領域の活性化と気分的新鮮さ、この双方をもたらしてくれるように感じますからこの習慣はお勧めです。昨日も西岸沿いに北大路橋から出雲路橋まで歩いたりベンチで休んだりーー直線的に走る方々を見送りながら。恵まれたこの自然環境に感謝しつつ好考爺の腰折れを一つ。

 どっこいしょ冬の比叡が真っ正面

 最後に、長い書簡をお読みいただいた読者諸氏に、そして歴史学の分析ーー「背景の背景」等ーーの深みを教えて下さり両分野の共通点と相違点の浮き彫りへの共同作業にも丁寧に対応して下さった藤原さんに、そして私が「ここ」と思う段落を「ここ、面白いです!」とプレビューに上書きするなど月々の驚きと励ましも下さった編集部の野崎さんに厚く御礼申し上げます。

藤原辰史/伊原康隆

藤原辰史/伊原康隆
(ふじはら・たつし/いはら・やすたか)

藤原辰史(ふじはら・たつし)
1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞、『分解の哲学』でサントリー学芸賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』『農の原理の史的研究』ほか著書多数。

伊原康隆(いはら・やすたか)
1938年東京生まれ。理学博士。東京大学名誉教授。京都大学名誉教授。1998年日本学士院賞。東京大学数物系大学院修士課程修了後、勤務先の東京大学理学部(1990年まで)と京都大学数理解析研究所(2002年まで)を本拠地に、欧米の諸大学を主な中期滞在先に、数学(おもに整数論)の研究と教育に携わってきた。著書に『志学数学――研究の諸段階 発表の工夫』(丸善出版)、『とまどった生徒にゆとりのあった先生方――遊び心から本当の勉強へ』(三省堂書店/創英社)など。最新刊は『文化の土壌に自立の根』(三省堂書店/創英社)。

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