第83回
ドミニク・チェン×安田登「これからのクリエイティブには「三流」がいる!」(2)
2021.10.26更新
『三流のすすめ』の刊行記念として、これまでいとうせいこうさん、そして平川克美さんと対談をしてきた安田先生。3回目となる今回は、対談相手にドミニク・チェンさんをお招きしました。情報学者でありつつ、「クリエイティブ・コモンズ・ジャパン」を設立したり、文学全集を編んだり、とまさに「三流人」であるドミニクさん。実は安田先生に謡を習っており、「師弟関係」でもあるんだそう。
そんなお二人が、それぞれの「三流」エピソードから、教育の話、さらには三流人に欠かせない「型」の話まで、三流らしくあっちこっちにとびながら語り合いました。その対談の一部を2日にわたって掲載いたします!(1日目はこちら)
構成:田渕洋二郎
1日目はこちら
生徒の考え方をジャッジせず、「型」を学ぶフランスの教育
安田 僕は、ドミニクさんがどういう環境で育ってきたかも気になっていているんです。
ドミニク 僕は生まれたのが東京だったのですが、幼稚園から小学校までは、東京のフランス人学校に通っていたんです。中学からパリに引っ越して、高校2年のときには、落第勧告をうけました(笑)。だからフランス式の教育に強く影響は受けているのですが、この話をする前にまず申し上げたいのは、フランスは自由・平等・博愛を掲げながらも、階級社会やエリート主義の側面がとても強かったりもする。いい面だけではないということなのです。その上で一点、今思い返してとてもよかったなと思うのは、先生が生徒の考え方をジャッジしないんですね。
作文の課題にしても、どういう内容を書いているかが評価されることは一切なく、荒唐無稽な話を書いても、テクニックが備わっていたら評価される。詩学にしても、形式を叩き込まれる。詩や散文がどのような構造に基づいているか、隠れた論理は何か、そこからどういう情念や感覚が湧き起こるのかを分析する方法論を何度も教えられる。だから、自分の考えや表現は基本的に自由で、あくまでその「思考の型」を学ぶんですが、この形式は自分には合ってましたね。
安田 それはいいですね。
ドミニク だから、日本にまた戻ってきて、日本の教育を受けた人たちから話を聞くと、「道徳」の授業があったり、作文や感想に「正解がある」みたいなことをきいて、びっくりしたりもしました。
僕が経験した限りですが、たとえテクニックが稚拙だったとしても、正解がない問いに対して新しい切り口を見つけようと果敢にトライしようとしている学生がいたら、それを最大限評価する、というのは欧米式なのかなと思います 。
安田 面白いですね。藤原定家は、和歌の作り方を教えるときに、「言葉は昔のものを使いなさい、そして心で学びなさい」いうんですね。そして、「その心は今の自分の心を使いなさい」と続ける。これってまさに古歌から「型」を学んで、あとはいまの心で創作するという点で近いような気もしますね。
ドミニク そうですね。それはあらゆる言語にも言えると思っていて、古典の形式を目的化してしまってはいけないですよね。いま、現代で学ぶことによって、なにが生み出されるのかを考えることに興味がある。それも三流人なのかな、と。
正・反・合と守・破・離
ドミニク あと私がフランスの教育を受けながらもずっと続けていたのは、剣道なんです。7歳くらいのときからフランスの高校を卒業するあたりまでのめり込んで、高2で落第勧告を受けた理由の半分ぐらいは剣道でした(笑)。そして、日本でもフランスでも、道場では「守破離」を叩きこまれました。一方、学校では弁証法の「正反合」をひたすら叩きこまれる。守破離というのは、守の段階がいつ抜けたのかも全く分からなくて、先生も言語化してくれない。境界が曖昧なんですね。
一方「正反合」というのもある種の思考の型で、これを学びさえすればあらゆる現象を論理的に検証できる。理屈さえインストールすれば何でもすぐに分析できるというのは、世の中を観る目がとても面白くなってくるんですよね。他方で「守破離」は時間が経たないと変化が起こらない。道場にいくと、「30年はやい」とかよく言われるんですが、それも言葉で言われるのではなくて、いろんな師範と稽古をするなかで直観させられる。
たとえば70代の師範と立ち会い稽古をすると、蛇に睨まれたカエルみたいになっちゃうんです。30秒くらい稽古するだけで全身が悲鳴をあげる。そういうことを経験するなかで、「理屈では乗り越えられない世界がある」ということを学んだんです。そういった両方の世界に魅了されつつ、引き裂かれていましたね。
安田 うちの高校では、倫理社会のテストで「正反合を現実生活の中で説明せよ」、「対自存在(Being-in-itself)と即時存在(Being-for-itself)を現実生活の中で説明せよ」という2題しかでなかったことがあったんですが、採点する方は大変だったと思います(笑)。
あと、フランスの数学者のルネ・フレデリック・トムという人がいるんですけれど、彼は、「正反合」をカタストロフィー理論としてトポロジーから考えた人で、微分方程式を解きながら、「正反合」がどんなふうに起こるのかを説明した人なんですけれど、高校時代に彼の本を読むために微分方程式を勉強しました。
ドミニク すごいですね。この本を読んでいても、改めて、小中高時代の安田さんの多動ぶりに圧倒されました。
安田 あと、高校1年生の国語の授業で、最初の数時間で太宰治の『お伽草紙』の構造分析をして、あとはまったく授業をしなくなり、「小説を書け」という課題だけ出されました。
中学の頃から、レーニンや毛沢東にはまっていたので毛沢東の『矛盾論』の話から恋愛小説を書いたのですが、それも、今思えば型だけ教えて内容は自由にせよという授業のかたちでした。いい高校で本当によかったです。
型は没入するための扉
ドミニク なにか、「型がある」というのは、三流人の特徴でもあるんですかね。この「型」も、そもそもは能の言葉ですよね。そしてこの「型」というのは、マニュアルやガイドラインとはまた違ったもののような気がするのが面白いです。
安田 そうですね。型というものは「その中に入っている感じ」がするんです。能をしていると、いま「序」の中に入っている。「破」のなか、そして「急」のなか、といった身体的な感じがします。
ドミニク なるほど。型というのはある種、自分ではない何者かになるという、没入するための扉の役割も果たしているのかもしれないですね。
安田 そうですね。能の「序破急」が「起承転結」と違うところというのは、起承転結は知的なんですよ。ここでびっくりさせようとか、感動させようとかが計算されている。でも「序破急」は、身体そのものがそこに入ってしまっている。
ものをつくり出すときって、僕自身もそこに入っている感じがするんです。「銀河鉄道の夜」をする、というときも、起承転結で考えるのではなく、能の「序破急」のなかに入れるとどんな動きになるんだろう、と考えると、自然と流れや物語ができてくる。
ドミニク 物語の型に別のものに流し込むというのは、ものすごくクリエイティブですね。今日のテーマである「クリエイティビティと能」というところでお聞きしたいのは、世阿弥が能を書く時は、彼自身どういうマインドで書いていたのか、というのも気になるんです。
安田 僕、学生時代中国古代哲学をやっていたんですが、周の時代の「儀礼」という本があって、それは、人格変容のための儀式のことが書いてあるんです。成人式とか結婚式も人格変容の儀式なのですが、能の構造って、「神を呼んで、神に舞ってもらってまた帰ってもらう」ということをするための最も効率的な構造であるという感じはするんですね。世阿弥もその「神下ろしの構造」は意識していたんだろう、と思うんです。
また、世阿弥の時代は「立ち合い」というものがあって、これは現代のラップバトルのようにいくつかの劇団が競い合うものがあったので、直前で劇団Aが面白いことをやったら劇団Bはそれを受けて、その場で内容を変えていたんじゃないかなと思うのです。だから、アドリブ力がとても重要になる。そのためには、やはり「型」が身についている必要がある。そういう意味でも、「型」があるからこそ、自由がきくし、それが三流人を楽しむコツなのかもしれませんね。
(終)